Friday, July 30, 2010

英語をポツリポツリ・・・

最近、英語の文章っぽいものを使い始めた。私とではなく、夫と話しているときに英語が出てくることがほとんどで(エリックが日本語で話しても、夫はいつも英語で話しかけている)私には継続的に日本語で話している。Eの限られた英語はというと・・・

Why?  (英語でも始まった!)
Holy cow! (驚いたとき、最近、よくこれを使う)
I don’t know.(このあとは、大抵「なんで?」が続く) 
Let’s go, everyone! (3人で散歩に行こうとしているとき)
Go away! (夫を押しながら)
This one, please. (食卓で、何かを取ってほしいとき指さしながら)
There, underneath.(本棚の下にあるおもちゃをとってほしいとき)
Like this… (といって、何か踊ったり、動いたりする真似をする)
I’m fine. (Are you OK?と聞かれると)

おもしろいのは、こう言ったあとでときどき「エリちゃん、英語しゃべったね」と言うこと。日本語と英語の区別ができているらしい。

I am…

ELCで過ごした日の帰り道、ふと気になって、
「がっこうでpee pee(おしっこ)が来そうになったらどうするの?」
と聞くと、
「コニーに言う」
という。
家ではいつも「Pee pee coming!」といっているE。
「がっこうでは、何て言うの?」
「I am pee pee coming!」
“I am”の構文を使って文章を作ったのはこれが初めて。文法的には間違っているけれど。

Monday, July 26, 2010

日本語が使えない環境で


ELCはもちろん英語環境。先日、スタッフのタラにエリックがスタッフの言うことを理解しているようかどうか、と質問してみた。タラの答えは、

「私が言うことはほとんど理解していると思う。指示には従っているし・・・」

というもの。では、会話はしているのだろうか。

「エリックの性格的なものだと思うけれど、ほとんどしゃべらないわね。質問に答えてOKとかNoは言うけれどね」
やっぱり・・・。私はふと、ELCに迎えに行った日、帰り道が特にそうだけど、ずーっと話し続けている状況は、ひょっとしてELCでずっと話をしないでいるからではないか、と思ったりした。

Eは私や夫といるとよくしゃべる。もちろん、日本語だし、彼の言葉の95%は日本語。ELCでは日本語が使えないことを、彼はちゃんとわかっているはず。

ほとんどを中国語で育てられてきたサニーは、英語を理解しないけれど、スタッフのメンバーのなかに中国語を話す人がいるので、その人のそばを離れず、彼女ときちんと意志の疎通をしている(でも、未だに時々、泣いていてかわいそう・・・)。Eの場合、誰も彼の(今のところの)第一言語になっている日本語を理解する人がいないため、ちょっと寂しい思いをしているんじゃないだろうか。夫は「でも、Eは英語を理解しているからだいじょうぶ」と言っているけれど、やはりしゃべれないのはおしゃべりさんには辛い。

私も初期育児中は、夫が帰ってくると「堰を切ったようにしゃべりだして、いろんなことを続けざまにしゃべり続けていた」(夫いわく)らしい。私の状況と今のEの状況、ちょっと似てやしないだろうか??

「そういうもんなの」

「なんで?」「どうして?」と聞くEに、時として忍耐力の続かない私・・・。
なんでって、それはそういうもんだから、そういうもんなの!」
と説明にもなっていない答えを投げることもある。
最初のうちは、
「”もん”って何のこと?」
とか「”そういうもん”ってなにの'もん'?」
と聞かれれば、またまた私は日本語の特徴である曖昧性をフル活用させて、Eを煙に巻いていた(本当は悪いって分かってても、忍耐力のない私・・・)。
そのためか、最近は、「なんでそういうもんなの?」と先回りした質問の仕方をするようになったE。敵もなかなかやりおる…。

Saturday, July 24, 2010

bits連載コラム第8回 絵本の読み聞かせに関するあれこれ

日本でばあばに買ってもらったカード・セットは、2枚の絵をあわせてひとつの乗り物の絵(たとえば「ふね」)をつくるもの。裏にはそれぞれ日本語(ふね)、英語(Ferry)の表記がある。

ふと思って、日本語と英語のカードを並べ、
「どっちがマミイのことば(日本語)で、どっちがダディのことば(英語)?」
と聞いてみた。すると、それぞれ当ててきた。でも、50%の確率で正解なのだから、まぐれだわね…。そう思ってもう一度、今度は別のカードを探して同じようにやってみた。また当たった。いやいや、と実証的な私は何度か同じことを試してみたが、結果は同じだった。

3歳になる1ヵ月前のことで、それまでも、というより、今のところ、私も夫も文字はまったく教えていない。音に関しては英語と日本語を区別できていたが、文字を見て別々の言語と分かるようになっているとは。本の読み聞かせの効果以外にはその理由が思い当たらない。

というわけで、英語圏での日本語の読み聞かせに関する話を今回は書いてみたい。何しろ、手に入る日本語の絵本は限られている。それに、英語の本にもよい本はたくさんあるのだから、読んで聞かせない手はない。乳児用の本なら、即興で日本語に訳しながら読んであげられた。しかし、本の難易度があがるにつれ、毎回の同時翻訳が少しずつ違ってきたりして、このやり方にいささか疑問を持つようになった。リズムが大切なのに、時に気にいらない訳になる点も問題で、それなら英語の絵本に自作の日本語訳を書き込めばいいのだけれど、私は今までそれをさぼってきている。私の友人は英語の本に、日本で探した訳書の訳を手書きで入れていて、その努力に頭が下がった。

一方で、私には未だ解けない疑問がある。それは、英語ネイティブではない私が英語の絵本を読み聞かせていいものか、というもの。英語圏で書かれたバイリンガル関連の本は、おしなべてこの私の疑問を肯定している。もちろん、ネイティブの発音に越したことはないけれど、アクセントのある言葉が害を与えるわけではない。それが私の読んだ本の答えだった。

私たちの場合は、夫が英語、私が日本語のネイティブという状況なので、半分を担う私の英語にアクセントがあっても、エリックのなかで自然矯正されると思うのだが、それにしても、では、仮に私の妹夫婦のように英語苦手という日本人カップルなら、英語の本の読み聞かせは子どもにどのような影響があるのだろうか…、と興味は尽きない。

もちろん、本の読み聞かせの効果は、発音や語彙の獲得に留まらず、本を読むことへの愛着、親子の触れ合い、想像力の育成…と多岐にわたっているので、発音という面だけに絞って考えなくてもよいのだけれど、好奇心の強い私としては、昨今、ふと気付いたら上の疑問をあれこれと考えている。

ちなみに、あるときから、「本を読んであげる」と言うと私には日本語の本を、夫には英語の本を持ってくるようになったエリック。なので、ここしばらく、私の担当は日本語だけ。毎日同じ本を読むとあきるのも私だけのようで、3歳児には10冊ほどあれば十分事足りるってことにも気付き、ほっと安心している。

Friday, July 23, 2010

混乱

虫がいっぱい出てくる絵本を見ていたEが突然顔をあげて、
「マミイ、これは”おもちむし”っていう名前の虫なのね」
と言う。おもちむし?
よく見たら、”だんご虫”だった・・・。
おもちとだんご、混乱したのね・・・。

Thursday, July 22, 2010

木の名前

エリックは最近、木の名前を私に聞く。
「木」というのがGeneticな名前で、木にはいろんな「種類」があることに気付き、それに魅了されている感じ。
「この木はどういう種類?」
と聞く。

私もあまり知らないので嘘を言ったりすることもあったりするが、クイーンスパークの木には名前を示すプラークがかかっているので、私も勉強中。

メープル、オーク(樫)、リンデン、ポプラ、マツ、ホースチェストナッツ、もみじ
葉っぱや木を見て、今のところ、これだけ言えるようになっている。

Wednesday, July 21, 2010

「死んだ」という概念

数日前、散歩によく行くセント・マイケルズ・カレッジ付近でりすが一匹、死んでいた。まわりに流血はなく、まだ死後あまり経っていないようだったが、確かに死んでいて、すでに蝿がまわりを飛んでいた。私がじいっと見ていると、Eも後ろからやってきて、座って見ていた。
「マミイ、このりすちゃん、むぶかない(うごかない、の間違い)ね。どうしたんだろうね」
というので、
「このりすは死んでるのよ」
と答えた。
「死んでるって、なんのこと?」
「死ぬってのは、命が終わるってこと。もう大きくもならないし、もう動かないし、走ったり、ピーナッツを拾ったりしないってことよ」
それ以上は何も聞かなかったけれど、Eは死んでるりすをしばらく眺めていた。

昨日、散歩に行ったとき、エリックはすぐさま死んだりすがいたところへ駆けていき、まだそのりすが芝生の上に転がっているのを見ると、
「マミイ、りすちゃん、まだ動かないね。たぶん、まだ死んでるんじゃない?」
と言った。「まだ死んでる」ってのはおかしな表現だと思ったけど、何も言わなかった。

今日、また散歩に行って、死んだりすのいたところへ駆けていくと、もうりすの姿はなかった。Eはふとうれしそうにして、
「マミイ、りすちゃん、もういなくなったね。たぶん、また新しくなったんだと思うよ」
と言った。
「たぶん、また新しい芽が出て、大きくなるんじゃない?」
Eは今、何なのかしらないけれど、どこかから飛んできて勝手に発芽した芽をバルコニーで育てている。小さな葉っぱがなくなったり、出てきたりするのを見ながらいろんなことを考えているのかもしれない。

Monday, July 19, 2010

The Life of the Brain Series 2. First Words (Toronto Star, July 17, 2010)

ノーム・チョムスキーが50年以上前に提案したLAD(Language Acquisition Device,人間の脳には言語を習得する以前、生得的に言語習得の機能が備わっている)という考え方は、今のような先端技術を使った実験によって導き出されたわけではなかった。それが、最近の心理学分野の実験で、科学的に裏付けられている、という記事を読んだ。 (The Life of the Brain: How children learn language, Toronto Star, July 17, 2010 http://www.thestar.com/mobile/news/article/837019
この特集記事は長いし、専門用語が多くて難しいのだけれど、バイリンガルに関する箇所は興味深いのでこの部分だけ概略してみる。

・生後6ヶ月の赤ちゃんには世界のあらゆる言語に特有な音声を聞き分けることができる能力が備わっている
・生後6ヶ月から1年にかけて、この能力は低下するが、一方では音声学のわずかな変化を聞き分けられる能力が備わる。子どもの言語能力がこの時期、飛躍的に伸びるのはこのため
・一方、バイリンガル環境で育つ子どもの場合、6ヶ月時期に見られた多様な言語にみられる音素の認識能力は閉じることはない
・バイリンガル環境で育つ赤ちゃんは、ユニリンガルの赤ちゃんに比べてより語彙発達がいちじるしい。従って、実際には早期バイリンガリズムは、子どもたちの将来に利益、とりわけ音韻論(phonology: ある言語の言語音を音素という単位に抽出して、その構造や体系を記述したり、また文や単語を具体的な音声に変換するのに必要な規則を見つけだす)の認識が必須となる読解力の場面で多大な利益を与える
・アメリカ貧困層地域でバイリンガル環境で育った子どもたちは、国内で最も裕福なエリアで育ったユニリンガルの子どもたちと同程度の読解力を持っていることが調査により判明した

この研究はトロント大学のDr. Laura-Ann Petittoによってなされており、彼女の調査領域は認知神経科学。何かのマガジンか何かで以前、「生後6ヶ月までは、どの赤ちゃんでもたとえばRとLが聞き分けられるが、それ以降、たとえば日本人の子どもはこの両者が区別できなくなる」というのを読んだことがある。ほーっと思ったけれど、上の研究を読むと、このステイトメントは正確には「日本人の子ども」ではなくて「日本語環境で育っている子ども」というのが正しいらしい。

何はともあれ、発達心理学でも言語学でも、最近の研究結果は「バイリンガル環境で育つ=アドバンテージ」という方向を指していて、バイリンガルで育てている親にとってはこの上ないサポートであると感じられる。

Thursday, July 15, 2010

カナダジン・ニホンジン

なぜか突然、朝から「カナダジン」と言い始めたE。
カナダ人って何のことか知っているのだろうか。
私:カナダ人ってだれのこと?
E:えーっと、エリちゃん、ダディーとマミイも。
私:じゃあ、プーシキン(夫の両親宅の猫)は?
E:たぶん、カナダ人だと思うよ。

その日のうち、私からは言ってもないのに「ニホンジン」も言い始めた。
私:ニホン人ってだれのこと?
E: えーっと、えーっと、うーんっと、ばあばと、じいじ。
私:そうなの?
E: そうなの。・・・で、ももたろうもニホンジンなのね・・・。

その後、私がキッチンに入って料理している間、「カナダジン」と「ももたろう」などが繰り返しデタラメにでてくるデタラメ歌をひとり歌いながら本をめくっていた…。
ちなみに、私、いまだ日本人なんだけどね・・・。

Wednesday, July 14, 2010

Language mixing, Code mixing(コード・ミクシング)

1昨日くらいから、Language mixing, Code mixingが見られ始めているような・・・。
例えばこんなふうに・・・
I want お茶 もう1回 please.
I need そっちのやつ。Mommy とってplease.
Can I have エリちゃんのねこ?



私: お茶、どうぞ。
E: はい、ありがとう。(お茶こぼれる)Oh, no! 冷たかった。エリちゃん、お茶こぼしたね。E:Can I have ティッシュペーパーPlease?
私: (ティッシュを取ってあげる)これで拭いて。
E: Oh, ありがとう。

専門家によれば、
Code-mixing is typically a short-term phase for children learning two languages. This is perfectly normal and quite common.(コード・ミクシングは、2言語を学ぶ子どもたちによく見られる一時的な段階であって、完全にノーマルで非常によく見られる現象である)(The Bilingual Edge, Kendall King & Alison Mackey)

「一時的な段階」というのがポイントで、この段階では、語彙や言い回しの不足を補うために、2言語を混同しているので、言語習得が進むにつれ、いずれはなくなっていく、と言われている。
なので、「2言語混同=2言語を区別できない」ということでもない。実際、私はときどき英語と日本語のカードや本を見せたり、2言語をしゃべったりして、「どっちが英語?」と聞いてみるが、こんなとき、Eは驚くほどよく言い当てている。

子どもたちは耳で聞くうちに、2言語が異なる言語体系であることを敏感に感じとっている。それは、それぞれの言語体系にそれぞれのルールが存在することを(文法にもなっていないような細かいルールまで)感じ取っているということでもある。チョムスキーはこのシステムを、言語習得装置(LAD)と名づけたわけで、こうした高度に開発可能なものが赤ちゃんの脳に備わっているというのは、何という神秘であろうか!と思わざるを得ない。

泣いてくれてちょっぴり安心

ELC3日目にして、とうとう涙を見せたE。私が「さ、これからマミーはおうちでお仕事して、お昼寝が終わったら帰ってくるからね」と別れ際に言うと、「なんで?」と聞く。「マミーはやることがあるから」をはじめ、何を言っても「なんで?」「なんで?」で、そのうちに「ワーッ」と泣き出した。ちょっぴり心配したけれど、スタッフのコニーが「あとは大丈夫だから、行ってね」と言うので、「バイバイ、エリック!またあとでね」と明るく言って出て行く。

5時間後、帰って来て窓からそーっと覗いて見ると、エリックは泣いている風もなく、スタッフといっしょに何かで遊んでいた。そのままスナックが終わるのを待って(またサニーのおじいちゃんとあれこれ話す)、4時15分ごろ入って行くと私の顔を見るなり泣いてしまった。私がハグしてあげていると、周りの子どもたちが数人やってきて私とエリックのハグに加わって、みんなでハグハグしているうちに、エリックも笑い始めた(この年齢の子どもたちって、ハグが好きなのね)。

スタッフには「何度か泣いたけれど、スタッフがまわりにいると大丈夫だし、長い間泣いていたわけじゃなかったわ。エリックは他のことに気を向けると忘れてしまうから、きっとすぐに慣れるわよ。心配しないで」と言われる。
「今日一日、よく遊んだわね。泣きたいときは思う存分、泣いていいからね」
と言って、私もちょっぴり安心したのであった。

Monday, July 12, 2010

「思うのよね」

Eがかなり会話をできるようになってきて気付いた。Eのこの日本語の大部分は、この3年間、私の日本語を聞いて学んだものなのだ! 
…と同時に、こんなことにも気付いた。
Eのしゃべる言葉が何となく女性言葉っぽいことがある

「ここはトラックが通っていくから、きっとトンネルなのね」
「あっちに行ってみたほうがいいと思うのよね、エリちゃんは…」


そりゃ、私しかいないんだから仕方ないのだろうけど、これってどうしようもないのかしらね。
言葉遣いが性差によって違う日本語って、①海外で②男の子を③テレビを見せず、④ほとんど日本語をしゃべる友達もいない環境で育てるときには本当に厄介・・・。

Sunday, July 11, 2010

最近の様子(3歳1ヶ月)

・話す会話はほとんどが日本語(日本語95%、英語5%)
・まわりの英語の会話をききながら、日本語にしたり、日本語で質問したりすることが増えている
・ひとり遊びをするときにぶつぶつ話しながら遊ぶ
・Oh, my god!とかOh, noと言い出した
・ELCに行き始めた(週2日)
・私のことは「マミー」夫のことは「ピーター」と呼ぶ
・「おやすみ」が「Oh, tammy」に聞こえる
・「だいぶじょう」続く…(だいじょうぶ、のいい間違い)
・「うごく」が「ムブク」になる…
・「~したらいけんよ~ってばあばが言うね」と広島弁を使う
・「なんで?」「なに?」がやたらに多い
・自分で5分くらいは本を見れるようになった
・ぐるぐる丸を紙が破れるまで描く
・まっすぐな線を描く
・1日のうち95%は見るからにハッピーにしている
・はとやりすをみると「はと!」「りす!」と大声で叫ぶ
・「はい、ありがと」「あ、ごめんね、マミイ」とよく言う
・赤い飛行機でじいじとばあばのところへ行く夢をよく見る(らしい)
・屋内で遊ぶより、屋外で歩いたり走ったり、草や木や花を見るのが好き
・ドロップインでアイスクリームをもらって食べた!
・猫が大好きなのに、ひょっとして猫アレルギー?

Friday, July 9, 2010

Oh, my god!

ここ数日、おもちゃでひとりで遊んでいるとき、ときどきOh, my god!とかOh, no!とか聞こえてくるようになった。小さなCarを動かしながら、今までは、「事故が起こった!」とか「坂道行くよ~」とか言っていたけれど、英語が聞こえてくるのは新しい変化。神を信じない私はOh, my god!とは言わないし、夫も言わない。ひょっとすると(とてもエナジェティックな)ELCのスタッフかもしれないとふと思った。

涙はどこに?

一体全体どうしたことだろう? 
ELC2日目の昨日、お昼ごろ様子を見に行くと、「He’s doing great! 泣いたのは1度だけ」との報告を受ける。それも、トイレにあるペーパータオル・ディスペンサーがEがくるっと反対を向いたときに頭に当たったときだったという(2回目…)。He’s doing great…でも、やっぱり私が見た限りでは、Eの顔にはちょっぴり不安そうな表情が見えて、私を見ると急いでこちらにやってきて手を伸ばし、その小さい手でしっかりと私の手を握りしめた。

お昼寝タイムは一緒にいてあげることにするが、眠そうにしている割には一向に眠らず、途中で私もあきらめて出てくる。4時に迎えに行ったときはダンボールにテープを貼ったりしていたが、やっぱりいつものEってわけではなく、何となく不安そうにしていた。泣いてはいないものの、やはり私の目にはどこか心細さがはっきりと見えてきて、「いずれ大泣きするんじゃないか」との不安がどうしてもぬぐえない。

一方のサニーは、5分泣くと、5分はちょっと静かになったりしているものの、やはり「アーウェイ(おじいちゃん)!」と頻繁に叫んでいた姿が本当に痛々しかった…。
 私はこの日、ほとんどをサニーのおじいちゃんと一緒にOISEのロビーで過ごしたのだけれど、私が出てくると、「サニーは?」と聞いて、心配している様子は明らかだった。朝、連れて行くと離れるのをいやがって全力でしがみつき、必死で離れまいするのだと、おじいちゃんは教えてくれた。「そんな姿を見ると、こっちまで涙が出てきて困るよ」と苦笑していたけれど、そう言いながら目には涙が溜まっているのだった。泣かなくなるまでには20日はかかるだろうとスタッフに言われたらしく、それまで毎日、このロビーで朝の10時から4時まで過ごすつもりだと言っていた。

「エリックが泣かないのは3歳だからかもしれないね。サニーはまだ2歳半だから、ちょっと早すぎたのかも…」と心配もしていたが、早すぎたのでは?との疑問は、私もふと心に感じること。
 おじいちゃんも私も、こうやってガーディアンとしての気持ちを共有しながら、とりとめのない話をしながら、ときどき時計を見ては、お迎えの時間である4時が来るのをひたすら待っていたのであった…。

Wednesday, July 7, 2010

夫からELC初日の報告を受ける

今日はエリックが公式にELCに行き始める日。Eを連れていった夫からの電話を今か今かと待っていた。電話が鳴ると、机を立って椅子につまづいて、そのままこけた私…。

さて、電話口の夫の声は明るくて、大変なことが起こっているのでは?と心配していた私の心配をよそに、何か食べていたりする! その夫が言うには…
「一度だけ泣きそうになっただけで、あとは問題なくやっている」。泣きそうになったのは、隣に座っていた女の子に背中をなでなでされるうちに、ハグとキスをされてしまったかららしい。そのとき初めて、夫の方を向いて情けない顔になって「エリちゃん、泣くよ」と言ったとか。以前もそういえばドロップインで女の子にキスされて大泣きしたことがあったわね…。

ランチのとき1時間ほど外に出た夫が帰ってみると、Eはまだひとりテーブルに座ってりんごスライスを食べていたという。もちろん、食べるのが遅いわけではなくて、スープもサンドイッチも残さず食べ(スタッフも驚いていたらしい…)、最後にりんごスライスを堪能していたらしい。

こうして夫は2度ほど外に出て戻ってきたらしいが、Eは涙など1粒も見せず、楽しそうにしていたらしい。そして、帰ってきたEは「Hi マミイ!」と元気よく、「エリちゃん、今日はエリちゃんの学校に行ったよ」と報告。「楽しかった」というので、「何がいちばん楽しかった?」と聞くと、「えーっとね、Carがあったから楽しかった」って、ELCにCarなんて置いてないじゃない…。

ところで、私はわが子のことも去ることながら、昨日あんなに激しく泣きじゃくっていたサニーのことも気になってしかたなかった。夫によれば、サニーは朝は涙も見せず遊んでいたそうだが、ランチ時になるとまた涙を流して大声で「マミ!」と連呼していたらしい。そのうち、OISEのラウンジでずーっと待っていたおじいちゃんが迎えに来て、その日はそれでおしまいになったとか。おじいちゃんは夫がELCから出てくるたびに「サニーは泣いてないか?」と聞いてたらしく、今日は私も(モンゴルから来て、2年間サニーの面倒をフルタイムで見て、もうすぐ帰国するという)おじいちゃんの気持ちや心情を思うと、涙が出そうになってきた。

Eとサニーが慣れるまでは私の方も気苦労が絶えず、あまり仕事もはかどらないんだろうな…。

Tuesday, July 6, 2010

涙の予感…

今日はHeart breakingな1日だった。

Eが行くことになっているELC(Early Learning Centre)にこの日、初めてひとりで残されたサニー。私とEが入っていったら、もうすでに涙がとめどなく流れていた。スタッフになぐさめられたり、抱っこされたり、注意をそらされたりして何とかランチになったが、そこからがまた大変。ドアのところでスタッフに「開けて!」と要求し、それがだめだと分かると、今度は自分で椅子をひっぱっていって、椅子に立ち、ドアノブを開けようとする(賢い!)。今までおじいちゃんと一緒にずっと過ごしてきたサニーにとっては初めてこうしたInstitutionalな場所にひとりで残されたわけで、そんなサニーの様子を見ていると、こちらまで泣けてきた。

人間ってのは社会的動物で、いずれは集団生活に移行していくべきなのは当然なのだけれど、2歳半(サニー)やそこらでこうした集団生活に入れるのはちと早くないの? 本を読みたい子がいるのに、歌の時間だからみんなで歌を歌いましょう、いすに座りたいのに、みんなでカーペットの上に座りましょう、と言われるのはどうなの? ま、みんなで同じことを1日中してるわけではないけれど…。シュタイナーのいうように6歳までは子どもは親が見るべきなの?  いろんなことを考えてみたら、どっと疲れが出てきた。

明日は、エリックの番かもしれない…と思うと何ともいえない気分…。Eって私に対するAttachmentが非常に強いし、私も近頃、やけに涙もろいし…というわけで、明日は夫に行ってもらうことにしよう。

「こえ」と「おと」/「動く」とmove

「マミー、さっき、エリちゃんの音、聞こえなかったでしょ?」
と数週間前から言っているのに気付いていた。シャンプーをしてもらっているところで、「音」じゃなくて、「声」のことなんだろうとはわかっていたので、
「エリちゃんの声、そういえば聞こえなかったね」
とかわしておいた。鳥の「こえ」、バスの「おと」という区別がなかなかできなかったようだけど、今日は「ダディのこえが聞こえた」と言っていたので、ひょっとして徐々に区別できるようになってきたのかも。

英語と日本語が一緒になってしまった言い間違いの例
Eは長いこと、「動く」というのを「ムブク」と言い間違えている。
多分、「うごく」とmoveが一緒くたになってしまったんじゃないかと思う。

Saturday, July 3, 2010

U of T Early Learning Centre

7月から週2日でEarly Learning Centreに行くことになったE。先日、Eと私は3時間ほどCentreで他の子どもたちに混じって遊んだ。目標は、まずEを環境に慣らすこと。その日が初日というサニー(2歳半)もおじいちゃん、おばあちゃんとともに来ていて驚いてしまった。サニーは私たちと同じアパートに住んでいて、マミーが目下博士課程で勉強中なので、モンゴルから祖父母が来て面倒を見ている。
さて、このCentreで気付いた点を記しておこう。
・バイリンガルの子どもたち
スタッフのドナはストーリータイム(本を読んでくれる)のときに、エリックとサニーを紹介した。紹介するときに、Eric speaks Japanese and English. Sunny speaks Chinese, and needs to improve his English.と言ったのにはちょっぴり驚いた。それから、その日、Centreを巣立っていく子どもたちもいたらしく、その子たちのこともNicole speaks French and Spanish. Ali was fluent in Hindi and Englishと言っていて、このCentreで学ぶ子どもたちの大半がバイリンガル環境で育てられていることが判明。エリックの会話が今のところほとんどが日本語なのがちょっと気になっていた私も、こうした環境ならスタッフ側の意識も高いだろうし、他の子どもたちにもスムースに慣れていくかもね、と思って安心した。

・Politically correctness
もうひとつ気付いたことは、スタッフが「政治的に正しい言葉の使い方」を実践していること。本を読んだ後、ドナは子どもたちにこう質問した。
「このお話のなかで、チェスターが新しく友達になったラクーンの名前は何だった?」
何度かやり取りがあった後、なかなか当てられないので、ドナは、
I will give you a hint. It was a girl’s name…
とそれが女の子の名前だったことを教えてくれた。そして、やっとこさ、ある子どもがCathyという名前を出してきて正解だったのだけれど、そのとき、ドナはふと、
Well, I might have been wrong. Cathy might be a boy's name. We cannot tell by the name who she or he is…
と説明していた。

「これってやっぱりOISEだわ!」と思ってしまった。トロント大学のなかでもOISE(Ontario Institute for Studies in Education)は教育者養成機関とだけあってマイノリティに配慮した環境がしっかりと確立している。ここで教えたり、学んだりする人たちは、Sexual minority, racial minority, politically oppressed peopleといった人たちに配慮し、women’s right movement, feminismなどの意識も非常に高く、OISEで授業を取っていたことのある夫は、「ここでは、他の場所以上に言葉を慎重に選んで話さなくてはならない」と言っていた。

さて、話がそれたが、Cathyが女性名であるとは限らない、というドナのメッセージは、子どもたちにどのように伝わったのだろう。

・車椅子のお友だち
エリックにはこのCentreの他にもうひとつオプションがあったが、私と夫がここに決めた理由は、ここには車椅子の子どもがいて、スタッフのひとりが「他の子どもたちも彼を自然に受け入れて、あれこれ世話を焼いてくれる子どもたちもいる」と言ったことがきっかけになっている。私がいた日も、ケアワーカーがちょっと離れていた隙に、車椅子の子どもの頭がズズズッと下にずれてきたのを見た子どもたちが、自らかけよってまっすぐに頭を起こしてあげていた。共生しなければわからない、他者に対するケアが子どもたちによってなされているのを見るのは感動的ですらあった。

バイリンガルの子どもたちが多いのは、何もOISEのELCに限ったことではない。移民都市トロントでは、きっとどこのデイケアに行ってもそれが当たり前。日本とは何という違い! こうした場所で学べるエリックは何と幸せなのだろう、と思った1日であった。

デイケア環境への移行

私が未だにカレッジを産休になっているのは、エリックに可能な限り日本語を話しかけてあげようと思ったから。数週間前、Eが3歳になったとき、「今ならデイケア環境がいろんな意味でEを成長させてくれる」と思い始めた。

いくつかの理由は…
・他の子どもたちの興味を示し始めた(具体的には、他の子どもたちが走ったりして遊んでいると「わー」とか言いながら、一緒に走り出したりする)
・私のことをさほど必要としなくなった
・いろんなことを自分からやってみようとする

ちょうどいい具合に、OISEにあるEarly Learning Centreにスポットがあいた、という知らせも舞い込んだ(それにしてもWaiting listは長かった。1年半かかったわ)。

とはいっても、エリックは何かあると「マミイ~ マミイ~ 助けて マミイ~」だから、慣れるまではきっとたくさんの涙が流されることだろうね…。

Thursday, July 1, 2010

2 types of childhood bilingualism/Critical period/Language plan

2 types of childhood bilingualism
子ども時代のバイリンガル教育の仕方には2つある。
simultaneous bilingualism …同時に2言語を学ぶ 
sequential/successive bilingualism …1言語が土台として確立しており、それをもとに第2
言語を学ぶ
どちらが有利ということはないが、2言語とも同じ頻度で接していることがバランスのとれたBilingualを育てるカギ。時期的に異なるImmersionも、この2つの方法に依拠している。

Critical periodとは
言語学者によれば、バイリンガル教育にとって、Critical periodと呼ばれる時期が非常に大切。
この時期は、生後からpubertyまでのことで、脳の発達が非常にいちじるしいこの期間に、言語を学んだ場合、のちになって学習する学習者よりもより難なく日常的に接している言語を学ぶことができるという。

Language planの必要性
子どもをBilingualに育てるのは簡単なことではない。生後から6歳までの期間は非常に限られた時期なので、計画的にBilingual教育を進める必要がある。
その際、最も大切になるのは、「どの程度まで学ばせたいか」という到達度の目安であって、Language planはこれをもとに立てられるべき。たとえば、「じいじやばあばと会話ができればいい」という程度と「両言語で学術論文が書ける」程度とでは、Planがまったく違ってくるのは当然。

bits連載コラム 第7回 バイリンガルの利点

バイリンガルであることの利点は、欠点に比べるとはるかに多い。
「バイリンガルの利点」というと、より多くの人と友達になれる、より多様な情報にアクセスできる、教育や就職の幅が広がる、その結果としての経済的な利点・・・などが簡単に思い浮かぶ。しかし、それ以上にすばらしい利点がある、ということを、バイリンガリズムに関する本を読むうちに知った。

マギル大学(モントリオール)のFred Geneseeの研究によれば、モノリンガル(一言語話者)に比べると、二言語を流暢に操る子どもたちは・・・、
· 問題解決能力にすぐれている
· より自由な発想力や想像力をそなえている
· 他者に対する寛容な態度をもっている

・・・というケースが多いという。
バイリンガル教育の専門家Colin Bakerの本のなかに、その理由が書かれていた。彼が言うには、英語のKitchenとフランス語のCuisineはともに同じ名称をさす言葉だが、ふたつの単語は含有する意味の幅に違いがある。具体的には、Kitchenは料理をする場所、Cuisineはそれから広がって想像力を発揮する場所、といったより広い意義が加わっているらしい。そして、これらふたつの言葉を知っているバイリンガル話者は、モノリンガルに比べると、単語とそれが指す意味のあいだにはより柔軟な関連性があることを本能的に知っているため、固定観念や概念にしばられたりする傾向が少なく、より柔軟な考え方ができるということだ。

もちろん、モノリンガルがこうした特長を備えられないわけではない。モノリンガルであってもすばらしい問題解決能力や発想力をもつ人たちは大勢いる。それは忘れないようにしなくてはならない点だが、二言語を習得する過程でこれらの能力が開発・訓練されるという研究結果は、私には目からうろこだった。こうした点は、就職の幅が広がったり、経済的メリットがあったりする以上にはるかに魅力的な利点ではないか。

子どもが生まれてから、どんな人間に育ってほしいのか幾度も考えてきた。子どものなかに何らかの手がかりが見られたわけではないのに、幼児のころからヴァイオリンやピアノ、英語やアート教室などに連れていくようなやり方は親も子も大変だろうなと思う。子どもの脳の80%は6歳までに完成するといわれるけれど、だからといってそれまでにすべてのことを学ばせるのは無理だし、脳だけが成長すればそれで人間幸せかと問えばそんなことは決してない。

何かに直結するわけではないけれど、人として常に成長しようとする態度を育てる、そんなことこそ大切であると思っている私にとっては、バイリンガルで育てることの効用はすばらしく感動的だった。私の育児感にしっくりくるバイリンガル教育は、その後の我が家の基本的育児方針となった。

bits連載コラム第6回 バイリンガル教育の開始時期

いつか公園で私に「日本語をやめて英語で育てれば」と言ったクリスティーナはこうも言った。
「大きくなって、自分で勉強したいと思えば、そのときに始めればいい。私が10代で英語を勉強したのと同じようにね」

確かに言語学習というのはたとえ母国語であっても上限なき生涯学習であり、大人になってからでは遅すぎる、というわけではない。人生半ばにしてフランス語を学び、フランス語で書いた小説が2005年Governor Generals Literary Awardsに輝いたAki Shimazakiの例もある。

ただ、母語を介し、外国語を第2・第3外国語として学ぶという経験(というより「苦労」だわね…)を経た今、私には「偶然にも二言語を同時に習得できる環境があれば、それに越したことはない」という思いが強い。

言語学では、2言語を同時に学習した人たちをsimultaneous bilingualと呼ぶ。彼らは、いわゆる母国語というのが2言語ある状態で(どちらか一方が強くなるという傾向性はあるにしろ)、文法からちゃんと学ぶフォーマルな言語教育によって言語を習得したわけではない。

私のように母語を介して外国語を学ぶと、頭のなかに翻訳箱のようなものができ、そのなかに一回ちゃぽんとつけることによって言語は変換される。今でも、ああでもない、こうでもない、と面倒な言い方をする私は、かなりの程度、そのやり方に頼っているように感じる。一方、simultaneous bilingualの場合は、言語ごとに特定の思考経路ができるため、ひとつの言語はその言語体系のなかで自ずと処理される。1段階置く必要がないため、本人にとってのエネルギー浪費も最小限で済み、「あれまあ、さっきのは過去完了形を使わなくてはならなかったのでは?」と後で頭を悩ますような必要もない。

バイリンガル関連の本によればsimultaneous bilingualを育成するには人生の早い時期に環境を整えるのがいいらしく、生まれてすぐ、いや、最新の研究結果によると胎児のときから始めるのがよいとある。言い換えれば、simultaneous bilingualに育てるためには、本当に偶然にその環境が整っているか、親が意識的にそうした環境を与えるかどうかがカギになってくる。エリックが大きくなって、日本語なんていやだ、とか何とか言い出したらそのときはそのときの話。今のところは、親である私は意識的に彼がsimultaneous bilingualとして2言語を習得できるような環境を整えてあげたいと思っている。

bits連載コラム 第5回 我が家の場合

さて、これまで「モノリンガルで育てるか、バイリンガルで育てるか」についていろいろと書いてきたが、今回は私の立場を述べてみよう。

ひとことで言うならば、私はドクター・ホイと同様、子どもに2言語を教えることは、「親が子どもに贈れる最大のギフト」だと思っている。でも、我が家のバイリンガル教育はこのポジティブな考え方が動機になっていたわけではなく、最初は次のような、どちらかというとネガティブな動機から始まった…。

マジョリティ言語(英語)話者とマイノリティ言語(日本語)話者で構成される我が家では、以前にも述べたように、エリックをバイリンガルで育てるかどうかについて話し合いをしたことも、議論の末に「では、バイリンガルでいきましょう!」と合意した記憶もない。では、2人とも暗黙の了解として、日本語・英語の両語を教えたいと考えていたかというと、そうでもなくて、私の方は最初からエリックと英語で会話するなど考えられなかった(私の英語の発音を教えていいものか?)、夫の方はというと、日本語会話は日常会話レベルなのでこれも考えられなかった…というのが最も正確な表現になる。

私に関していえば、発音の問題はさて置いても、英語文化の子ども向け歌やお話はよく知らないし、成長した子どもとたとえば議論になったとき、第二言語での議論は私には不利だし、私の著作を読んでもらえないのはかなり残念だし・・・といったマイナス思考でエゴイスティックな理由もあった。しかし、何よりも、英語を第二外国語として学び(あるいは教え)、書くことで生きてきた私にとっては、自分の思いや思考を表現するのに最もしっくりくるのは日本語以外にはありえないという認識が強かった。

また、日本語を教えるという決断は、私の両親に対する思いが反映されてもいる。最初は結婚に大反対だった両親は、やがて時がたつにつれ、夫のことを「外国人」ではなくてひとりの人間として受け入れ、言葉の壁やイデオロギーの違いを超えて深くつながりあうようになった。両親とエリックがお互いに与え合えるものの可能性を、言語ゆえに、私の決断ゆえに切り離したくはなかった。エリックに日本語を教える決断は、私の両親に対する感謝の気持ちと愛情の表現でもあった。

反対に、移民家庭に見られるような文化や文化的アイデンティティの継承という問題は私にとっては重要ではなかった。むしろ、私は子どもには日本人/カナダ人という限定されたアイデンティティよりも、global citizenとしての意識をもって育ってほしいという願いがあり、バイリンガル/マルチリンガルはこの思いにも符合する。

知人サラの家庭では、スペイン語を教えるのに、スペイン語話者のナニーを雇っている。サラもドゥーゴもビギナーレベルのスペイン語しか話さないからである。一方、我が家は何もせずとも自然にバイリンガルで育てられる環境にあるわけで、それぞれが最もしっくりくる言語を使って子どもに話しかけることが、夫にとっても、私にとってもいちばん自然で快適な決断なのだった。

かくして、我が家では、夫は英語、私は日本語で子どもに話し、3人の会話は英語というのが自然な流れとしてできたわけである。

bits連載コラム第4回 歴史的に見れば・・・

何につけても懐疑論者の私だが、子育てに関してある程度の信頼を置いているのは、友人ドミ(有能ナニー)、シャーリーとニルダ(public nurse, home visitor)、私のかかりつけの医師ドクター・マッソン。彼らは妊娠中の私に、ことあるごとに「バイリンガルで育てなさいね!」と言っていたが、その当時の私はといえばある叔母から言われたように「英語圏で育てば自然にバイリンガルね」という程度の理解しかなかったから、彼らのアドバイスは耳を素通りしていったことをここに告白しておこう…。

考えてみれば、今までのところ「英語だけにしなさい」と言ったのはクリスティーナだけであるし、日本語を解さない夫の両親もこの件に関しては当然のごとく受け止めている。

しかし、カナダの都市で子どもに現地の言語(英語)のみを教えることが、いわば社会の約束事であったのはわずか20年ほど前のことに過ぎない。以前、あるラジオ・プログラムで、約30年前に南米から両親とともに移り住んだ女性が、当時のことを振り返り「あのころはassimilation(同化)が何より優先で、社会の雰囲気も、児童福祉専門家も、学校の教師も、家庭の外はもとより、家庭内でもスペイン語を使うことは子どもたちのassimilationを遅らせる原因となるから、英語だけで育てるようにと指導された」と言っていた。

20年以上前にハミルトンで子育てをしていた知人は、2歳になる子どもの言葉が遅いのは、家庭内で英語と日本語を両方使っていたことが原因と思い、その後は日本語をやめてしまったと教えてくれた。当時は、市の保健局や教育専門家などもバイリンガル教育に関しての知識はほとんどなく「二言語で育てると、子どもを混乱させるだけ」という通念が社会に浸透していたが、今から考えると惜しいことをしたと話してくれた。

トロントでは、ここ20年ほどの間に人口構成が大きく様変わりし、小さな子どもが集まる場では英語以外の言語にしょっちゅう出くわす。しかし、今もアメリカの多くの地域では「バイリンガル」という言葉は「英語が満足に話せない移民の子ども」と同義であるし、ネガティブなイメージが払拭されるにはまだまだ時間がかかりそうである。アメリカ人専門家が書くバイリンガル教育関連の本には、家庭の外で英語以外の言語を話しているとネガティブなコメントを受ける可能性を指摘し、その「障害」にどう対処するか、といった項目がある。現在のトロントではそんな「障害」に遭遇する可能性は限りなくゼロに近い。公式バイリンガル国家のカナダでは、アメリカに比べると概してバイ/マルチリンガルに対しては寛容である。

エリックの小児科医ドクター・ホイは、私が日本語で話しかけているのを見ると、「バイリンガル教育・・・、それこそ親が子どもに贈れる最大のギフトだね」とにこにこしていた。今の私もそう思う。そして、それが社会的に受け入れられている時代に、バイリンガル育児ができる私は何というlucky motherだろう!と過去を振り返るたびに感じている。

3歳までにできること(Nipissing District Developmental Screen)

Nipissing District Developmental Screenを参考に、3歳までにできることを言語発達に限って見てみると…

・家族の人が聞けばたいていの言葉は理解できるほどはっきりとしゃべっている
・2段階の指示が理解できる(例:靴を拾って、クロゼットに入れなさい)
・2~5語の文章を使う
・正しく言葉が言える
・日常的に使う形容詞を理解し、使うことができる
・ごっこ遊びを言葉や行動でできる
・言葉や行動でもって愛情を表現する
・音楽やお話を5分から10分親と一緒にじっと聞ける
・親しい大人や友達に言われるとあいさつができる

Eの場合、最後の項目がNo。私や夫には「おはよう」とか「Hi」「Hello マミー」とか「Sorry」とか「ごめん」と言っているのに、それ以外の人には言わない。せいぜい曖昧に手をふる程度。大きい子たちのいるマミーたちは、「うちもそうだったわ。ある程度の年齢になったらできるようになるわよ」となぐさめてくれるので心配はしてないけれど。

私の観察によると、今のEの言語発達のいちじるしい特徴は、「なに?」「なんでなの?」「どうして?」がやたらに多いこと。前にも書いたけれど、これはたくさんの説明を聞くことでいろんな言葉を吸収しようとしているのだとわかってはいるけれど、たまにイラッとしてしまうこともある。

もうひとつは、Eなりの世界観が形成されつつあるということ。「くもはなんでうごくの?」は最近よく聞く言葉だけれど、私が「なんでだと思う?」というと、「うーん、ミヤ(ねこ)がとばしたんだと思うよ」と言う。これは、以前同じ質問をされたときに、「むこうっかわにおっきなミヤがいるでしょう。あのミヤがふうっと大きな息を吹いたんじゃないかな」と言ったのを覚えていてそう言っているんだろう。「雲のなかにはなにがあると思う?」というと、「じいじとばあばが住んでる」と言ったり、音楽が戸外から聞こえてくると、「あれはタミー(おなか)のキャタピラ(むし)がエリちゃん、遊ぼう!って言ってるんだと思うよ」とか、そういう言葉を聞くと、自分なりに世界のなりたちというか形を把握しようとしているんだと思えてほほえましい。

それが言葉によって把握され、言葉によってコミュニケーションされている、というところにも、人間ってのは、言葉を得ることで論理的思考が開始される実態を目の当たりにしているという感じにも、とっても深い感慨を覚える今日このごろです。