Thursday, July 30, 2009

英語教育を始める時期


そういえば、妹の子どもがまだ小さかったとき、彼女が私に聞いたことがある。
「英語を学ばせようと思ったら、いつ始めるのがいいと思う?」
そのときどう答えたか覚えていないほど無責任なことを言ったのだと思うが、それもそのはず、子どものいない当時の私は、漠然と「言語の基礎ができる5歳か6歳ごろが、言語習得には最適な時期」だと思っていた。エリックを観察している今、同じように質問されたら、どう答えるだろう?

ズバリ、私の経験から言うと…
-- 読み書きならかなり後になってからでもかなり高度に習得できる
-- 正確な発音を習得しようと思えば、早ければ早いほどよい

と思う。

まず、読み書きに関してだが、私自身、読み書き能力に関しては自信をもっている。これはひとつは英語を教えていた背景から、文法や構文生成に精通したこと、さらにはもともと文字が好きであるということが大きく影響していると思う。遅くから文法を学んだり、本を読み始めたりしたことは何ら障害になっているとは思えない。

次に問題の発音…。これまで何度となく書いてきたが、今もってLとRの発音には苦労している。ふたつの文字が混在するLibraryやReliable、Realm、Relishという言葉は、なんとか別の単語を使って済ませようとするほど大嫌い。典型的な日本人英語学習者である私は、中学校で始めて英語に出会った(今の世代はちょっと違うかも知れないけれど)。その時点でLとRなど日本語にない発音を学んだわけで、それを正確に発音しようとするのはかなり難しい。

赤ちゃんは、周りが話しかけるのを聞くことで、特定の言語の構造を脳に刻み込んでゆく。つまり、言語が違えば、脳に刻み込まれる構造は異なるわけである。たとえば、日本語を話しかけられる赤ちゃんは、月齢6ヶ月ではRとLの発音の違いが聞き分けられるが、12ヶ月になるとすでに違いが分からなくなるという。12ヶ月までには、日本語の言語構造においてはRとLの発音は使われないため、赤ちゃんの脳では自然とその区別が無視されるわけである。(Get Set For Lifeマガジンの記事How Does the Brain Get Wired?を参考)

とはいえ、だからといって、6ヶ月までに英語の発音を聞かされていない赤ちゃんは、正確な英語の発音が不可能なのかというとそういうわけではない。3歳で、あるいは5,6歳でカナダに来て、かなり正確な発音ができる子どもたちを個人的に知っている。そのころだって、脳は活発に開発途上にあるわけで、6ヶ月を過ぎると開発可能性が突然シャットアウトされるなんてことはありえないのだ。なので、悲観的になることもないが、やはり発音に関しては早ければ早いほどよいのだと、自らの経験をもとに言っておこう。ただし、それでも発音矯正などで正確な発音を習得することは不可能ではないし、なかに優れた言語習得能力をもっている人たちも存在することもついでに付け加えておこう。

Monday, July 27, 2009

名詞から動詞へ…

ジョージタウン大学のKing & Mackeyによれば、英語環境における言語習得過程では、最初に子どもたちが習得する単語は名詞、それから動詞が続くらしい。しかし、韓国語では子どもたちは動詞を先に覚えるという。これは、英語ではおもに文章の最後に名詞がおかれるが、韓国語では文章は動詞で終わることが多いため、その最後のことばを子どもはピックアップしやすいということである。なるほどね。

記録マニアの私としては、エリックがしゃべる言葉を記録し続けてきたが(最近になって、あまりの語彙の増加に記録はストップ…)、最初のころは…
まんま、ないない、done、ぶどう、どうじょ(どうぞ)、わんわん
など見ると、やはり名詞が多いようだった。

ここ数ヶ月は、多くの動詞を学びつつある。今のところ、言える動詞は…
たべる、ねる、起きる、飲む、帰る、片付ける、入れる、ちびる(これって方言?)
しかし、寝ている私を起こそうとするとき、「起きて」というところを「起きた」と言うし、「食べた」というところは「食べ」といったり、活用がまだできてはいない
英語ではどうかというと、
gone、come on
以外は言ってはいない。分かってはいるけれど、しゃべるのは圧倒的に日本語の方が多いようである

そして、ここ1週間ほどのあいだに、否定形を使うようになったことに気付いた。
スープのなかに浮かんだにんじんをスプーンですくおうとしていたエリックに、私が「できるかな?」と言ったのを受けて、「できない」と言った。そのあと、なんとかスプーンににんじんを入れたあと、「できた!」と言った。ワオ!ちゃんと否定形の使い方が基本的にわかってきたようだ。もちろん、それを動詞の最後にくっつけて活用するのは難しいので、まだまだ長い道のりだと思うが…。夫の日本語では「聞いた?」と訊ねられて「聞いたない」と言ったり、否定形の活用の言い間違いをする。エリックが先にマスターするか、夫が先か…、この先の進捗状況が気になるところ…。

バイリンガルであることの利点

バイリンガルであることの利点は、欠点に比べるとはるかに多い。

「バイリンガルの利点」というと、簡単に思い浮かぶのは、
より多くの人と友達になれる、
教育や就職の幅が広がる、
その結果、経済的なメリットがある・・・
などだろう。

しかし、それ以上にすばらしい利点がある、ということを、バイリンガリズムに関する本を読むうちに知った。

マギル大学(モントリオール)のFred Geneseeの研究によれば、モノリンガル(一言語話者)に比べると、二言語を流暢に操る子どもたちは・・・、
 ・ 問題解決能力
 ・ より自由な発想力や想像力
 ・ 他者に対する寛容な態度

・・・という特長をもっていることが多いという。

Colin Bakerの本のなかに、そういえばその理由が書かれていた。彼が言うには、英語のKitchenとフランス語のCuisineはともに同じ名称をさす言葉だが、ふたつの単語にはわずかな意味の違いがある。Kitchenは料理をする場所、Cuisineはそれから広がって想像力を発揮する場所、といったより広い意義が加わっているらしい。そして、これらふたつの言葉を知っているバイリンガル話者は、モノリンガルに比べると、単語とそれが指す意味のあいだにはより柔軟な関連性があることを本能的に知っているため、固定観念や概念にしばられたりする傾向が少なく、より柔軟な考え方ができるということだ。

これを読んで思ったのは、言語は明らかに文化の一部というか文化を明瞭に反映しているものだということである。

私の個人的経験から言えば、日本語での論文の書き方と、英語での書き方の違いを知ったとき、日本文化と英語圏文化の根本的違いが理解できたような気がしたものだ(英語では、序・本論・結論をしっかり分けて書かない限り、それは論文とは認められないし、その書き方もdecisive(断定的)にやらなくては書き手の信憑性が疑われる。一方、日本語でそれをやると「傲慢ちきな」と叩かれるので、なるべく穏やかにいくように気をつけなくてはならない・・・)。バイリンガルは、こうしてふたつの文化の違いを構文の生成や文法的差異、さらにはBakerのいう単語に付随された意味などから感じ取ることが可能なわけで、それが他者に対する許容性や寛容性としてあらわれると知っても驚きではない。

もちろん、モノリンガルがこうした特長を備えられないわけではない。モノリンガルであってもすばらしい問題解決能力や発想力をもつ人たちは大勢いる。それは忘れてはならない点だが、同時に、二言語を習得するという過程でこれらの能力が開発されるという研究結果は、私には目からうろこだった。こうした点は、就職の幅が広がったり、経済的メリットがあったりする以上にはるかに魅力的な利点であると思う。

まわりの人はあれこれ言うけれど・・・


ある日、近所の公園でエリックを遊ばせていると、4歳のリチャードのお母さんクリスティーナがやってきてこう言った。
「エリックはどうもシャイな子のようね」
確かにエリックはシャイなのだけれど、私はエリックの前では「シャイ(内気な、大人しい)」という言葉を使わないようにしている。というのも、私は小さいころからまわりからレッテルを貼られるのが嫌で嫌で仕方なかったから(私の場合「変わってる」だった・・・)。そして、そのレッテルを繰り返し繰り返し聞かされているうちに、自分でもそれを信じるようになった経験があるから。夫がいつも言うように「He is who he is. He is perfect as he is(エリックはそのままで完璧)」と感じられるように、少なくとも私と夫はエリックの人間性を規定するような形容詞は使わないようにしているのだ。

なので、「シャイ」と聞いた私は
「リチャードはどうなの?」
と話をかわそうとした。

「今はとっても社交的で、見知らぬ子とも簡単に友達になるけれどね、実は以前はまったく違ってたのよ」
と言って、こう話しはじめた。何でも、クリスティーナの家族は2年前に中国からトロントに移住したらしい。リチャードは当時2歳。家庭ではもちろん広東語を話していた。頻繁に外で遊ぶようになったころから、彼女はリチャードがシャイで、まわりに子どもがやってくると逃げ隠れすることに気付き始めた。その原因は、英語が理解できないからなのではないか、と思い、夫と話し合って、家で広東語を話すのを完全に止め、英語で会話をすることにしたという。しばらくすると、リチャードは外に出て元気に遊ぶようになって、周りの子どもたちにも話しかけ、上手にわたりあっていけるようになったという。
「だからあなたも英語だけで話をするようにすれば、エリックも社交的になるわよ」

まあまあ、根拠のないことを! と気になった私は、それでも最近年を重ねるにつれ、路上での見知らぬ輩との口論がいかに無為であるかを認識するに至り、「新天地ではその地の文化により早く適応するように、母国語で子どもに話すのはやめなさい、と移民がいわれていたのはかれこれ20年も前の話で、今では移民家庭はもとより、単一言語の家庭であってもバイリンガル教育を小さいころから始める家庭が増えているのよ。それにこのマルチカルチャー・トロントでは、ほとんどの子どもが同時に二言語を学んでいるのよ・・・」といったことを口にするのは控えた。もちろん彼女は私がどうやって言語習得がなされるのかといった過程やバイリンガリズムに関心のある事実など知らないのだし、私がせっせとエリックの言った言葉を筆記していたり、夜中過ぎのブロガーである事実も知らないのだ。なので、
「それじゃ、リチャードは広東語を理解しないで育っていくわけ?」
と訊いてみた。
「大きくなって、自分で勉強したいと思えば、そのときに始めればいい。私が10代で英語を勉強しはじめたのと同じようにね」

私に関して言えば、10代で英語を勉強しはじめた経験は、いかに困難であったか! いかに多くの難問に直面したか! いや、未だに苦労しているのだからね。憎らしきはLとR・・・。それを思うと、同時に二言語を習得できるチャンスの備わったエリックにはそのチャンスを与えてあげたい。

そう、結局のところ、親のチョイスなのだ。まわりの人はあれこれ言うだろうけれど、私は今後も日本語で話しかけたり歌ったりするつもり・・・(やったね、意思未だくじけず!)。

Friday, July 24, 2009

バイリンガル教育と親の(強固な)意思



日本人の母親が2歳、3歳になる子どもに英語で話しかけているのを、今まで何度か見てきた(父親は英語話者)。そのたびに、「まあまあ、なんてもったいない!」と思わずにはいられない私(もちろん、口に出しては言わないけれど・・・)。
バイリンガルになる可能性のそろった環境に生まれた子たちなのに・・・。
「最初は私も日本語で話していたけれど、そのうちにデイケアに行き、近所の友達ができると英語の方が断然強くなって、こちらが日本語で話しかけても英語で答えるようになって・・・」
・・・日本語を教えることをあきらめた、という話も何度か聞いたことがある。いや、このパターンは日本人に限らず、スペイン語、ポルトガル語を母国語とする友人たちからも聞いた。

だからこそ。
私はバイリンガル教育には子どもの意思や何やら以上に「親の強固な意志」が必要なのだと確信している。

子どもが小さいうちは(0~3歳)、言語習得を導いていく責任があるのは親である。6歳以降、第二言語を学ぶ場合は「彼らの意思を尊重する」ということもあるだろうが、自我が完成されていない0歳から3歳までは「意思」とは、「親の」意思なのだと思う。

とはいえ、私にも時々その意思がくじけそうになることもある。とくにプレイグラウンドで他の子どもたちや母親と話をしたり、話しかけられたりしたあと、日本語でエリックに話をしていると面倒だと思うこともある。エリックがちょっと年上の子に日本語で話して、その子が「What is he saying?」と奇妙な表情をしたときには、友達ができないのでは? 疎外感を感じるのでは?との懸念が過ぎることもある。しかし、ここで私が折れてしまっては、エリックの可能性を小さくすることになると、日々、下手な歌を歌ったり、「ぐりとぐら」を読んだりしながら、ああだこうだとがんばっている。

そもそも、私がそう信じるようになったのは、ベンジャミンの母親と話をしたことがきっかけだった。私もそれまでは多くの人たちのように「母親(あるいは父親)が日本語話者で、英語環境で育てば自然とバイリンガルになる」と漠然と思っていた。しかし、フレンチ・カナディアン(もともとフランス系移民が入植したケベック州はフランス語圏)であるベンジャミンの母親は「フランス語を教えるのは私の使命」と言い、彼女がフランス系の血を引くことを誇りに思うように、ベンにもそうあってほしいと強く願っていると言った。フランス語を話せるという事実は、自分の継承文化を受け継いでいるという事実となる。フレンチ・カナディアンであるという彼女の強いアイデンティティが、バイリンガル教育に対する情熱となっているようだった。

私も海外に住む日本人として自らの継承文化をエリックに教えたいと思う。そして、書くことや読むことに価値を置いている私としては、お正月に着物を着たり、剣道をしたり、納豆やおもちを食べたり・・・ということはほとんどどうでもいいが、コミュニケーションの手段である日本語を教えたい。ベンの母親と話して以降、徐々にそう思うようになったのだ。

エリックが生まれる前の私は、エリックが1歳になったらカレッジに復学すると宣言していた。しかし、今では少なくとも3歳までは私が面倒を見ようと思っている。その最大の理由は、「日本語を教えるのは私の使命」であると感じるようになったことにある。バイリンガル教育の研究分野では、早期(赤ちゃん時代)の語りかけ・読み聞かせが、発音の正確さや安定した言語習得過程を約束するとの報告であふれている。

友達と遊ぶことが楽しくなると、子どもはもちろん、英語に流れるだろう。しかし、エリックの意思が確立するまでは、私の意思を通し、日本語を教えておきたいと思う。

Wednesday, July 22, 2009

「バイリンガルの子ども」とは?


実は堂々と言えるわけではないが、履歴書を書くときには必ず「Fluently Bilingual both in Japanese and English」と入れる。カナダに来て10年になる今、読む・書く能力に関しては問題ないと思っているし、オーラル・コミュニケーション(会話)の点でもとくに困ることなくやっていけると思う。

とはいえ、私自身、「バイリンガル」であるとは思えない。今もってLとRの違いが聞き取れない、うまく発音できない、Thの発音が疑問・・・、といった主に「発音」の問題に悩まされている(先日もスーパーマーケットでWhere can I find a bag of flour?とスタッフに聞くと、Flower? We don’t carry them.と言われてしまったし・・・)。

私の英語はどこまで行ったって「外国人の英語」であって、時折、ふと浮き上がる「たとえ一生この地に暮らしたって、ネイティブの英語話者と同じレベルで政治や文学を討論したりできないのだ」という思いに一瞬、悲しみを感じることも多々ある。ま、当然といえば当然で、私が育ってきた環境はバイリンガルになるような環境ではなかったのだ。

しかし、エリックは違う。家では異なる言語を母国語とする両親に育てられ、外では英語環境に浸かり、さらには国境が意味をなさないようなグローバライゼーションの時代・・・と、バイリンガルとして育つ要素が自然と、ふんだんに揃っている。

このブログでは「バイリンガルの子ども」あるいは「バイリンガル話者」とは、私のような、単一言語環境で育って、後から第二言語を習得した子どものことではない。あるいは、英語・日本語の日常会話は問題なくこなせるが、ひとつの言語での読み書きは不可能、という子どものことではない。私がエリックになってほしいと思っている「バイリンガルの子ども」とは、私が母国語として使える日本語レベルの言語能力をふたつの言語で(この場合は日本語と英語)こなせる子どものことである。

思うに、最も高度な言語能力として考えられるのは、詩を書く能力、小説を書く能力だろう。それを両方の言語でできるほどのレベルにエリックを育てたい、というのが(ともに活字中毒の)私と夫の共通の願いである。言語を自在に操ることができる「自由」を、それに伴って培われる他の能力を与えたい。私が子ども時代を過ごした環境とは違い、偶然にもバイリンガルとして育つ環境に生まれたエリックに、そのチャンスを最大限生かせる環境を作ってあげたいと、未だに第二言語で四苦八苦している私と夫は思っているわけである。

Tuesday, July 14, 2009

最近のエリックの様子

お絵かきが好き。黄色が好き。「みや」(ねこのこと)と言いながら、ねこの絵を描いているようだが、線にしか見えない・・・

  • 眠くなると「あかきい」(赤、黄)「ダディー、きたない」やら、でたらめな言葉をしゃべりまくる


  • Mother Gooseのライムをよく覚えていて、1単語抜かして読んでみると、自分で言える


  • ポティーが使える。ほめると得意げにしている


  • 水あそびが大好き。とくに水を移しかえるのがすき


  • ごはんが大好きで、レストランに入ると「ごはん、ごはん」と要求する


  • 記憶力がぐんと伸びている


  • ふたを開けるのが好き


  • スプーンを使ってスープが食べられる


  • 歌を歌うようにおしゃべりする


  • 最近のお気に入りの言葉は「きたない」「アボガド」「あかきい」


  • 「Please」と言える練習をしている最中


  • 取ってほしいものがあると今までは「とってママ」だったのが、最近は「とってプリーズ」


  • 黄色が好きで、黄色のものなら何でも好き(スープも黄色っぽいのならほいほい食べる)。たんぽぽを見ると必ずかけよってなでなでする
     

子どもの性格と言語習得


 2歳の誕生日を過ぎて以降、エリックの語彙がみるみるうちに増えているように思う。
しかし、ここ数週間のうちにエリックの語彙が急増したというよりは、今まで蓄積してきた語彙を発音して伝えることができるようになったという方が正しいように思う。つまり、言葉を発音できる能力が発達してきている、ということだと思う。
 毎日のように「あいうえお」の50音を聞かせているが、以前は「あいう」「えお」とふたつに分けなくては言えなかったが、最近は自分で「あいうえお」まで一気に言えるようになっている。相変わらず「さしすせそ」「はひふへほ」は「あいうえお」に近い発音で、難しいようである。しかし、明らかに他の発音は日本語らしくなってきている。昨日は、「だいこん」「おだんご」と言って、その発音を夫のと比べると、エリックの方が「断然日本語ネイティブに近い」(夫は私のコメントにかなり落胆・・・)。
 発音できるようになったことで、知ってはいても言えなかった語彙が伝えられるようになった・・・、そのため、語彙が急激に増えているように見える・・・、それが私の見方である。そして、これは、エリックの性格と深い関連性があると思う。
 エリックはプレイグラウンドでも決して周りの子どもたちの持っているおもちゃを取るような、将来、リーダーになるような意気盛んなナポレオン・タイプではない。子どもたちのしていることをじっと観察して、気に入ったおもちゃでうれしく遊ぶ、比較的静かなタイプ。なので、発音にもかなり慎重で、できると思うまで待っていたのではないか。2歳になるまえ、動物の写真を見せて「へびはどこ?」、「コアラは?」と聞くと正しく指差しできていたことから、名前を記憶していることは確認できた。言えなかったのは発音に自信がなかったからなのだろう。
 私の周りの移民友達を見てもそうだが、文法の間違いも気にせず、とにかく社交的でおしゃべりな人たちはしゃべることにかけてはシャイな人たちよりも圧倒的に英語力が伸びていると、少なくとも表面的には思われる。言語学関係の多くの論文や研究結果も、子どもの性格と言語発達の関連を示している。ただし、子どもの言語発達に関していうと、そのうちに追いつくということなので、この点に関して、私はまったく心配していない。

Monday, July 13, 2009

二言語で育つと子どもは混乱しないのか 

3人の息子さんを立派に育てあげたハミルトンの友人が、あるとき、日本語を教えられなかった1番上の息子さんのことについて話しているときに「みんな簡単に、どうしてあの子は日本語ができないの、と聞くけれど、そんなに簡単なものではないのよ」と言ったことがある。

彼女によると、周りから言語発達の遅れを指摘されたこともあり、息子さんが「二カ国語で話しかけられているので混乱しているのでは」と懸念したことがきっかけで、日本語をきっぱりとやめてしまったという。今から20年以上前の話である。

そういえば、先日、ラジオを聴いていると、現在60代になるメキシコからの移民の人が、孫の世代に継承言語としてのスペイン語をしっかりと教えたいという思いからインフォーマルな学校を設立したというエピソードが語られていた。その人は、カナダへ来た当時、周りから「英語を学ばせようとするなら、スペイン語は教えない方がいい」と言われ、子どもにはまったくスペイン語を教えなかったと言っていた。  実は夫も、父親の母国語であるセルビア語を教えられていない。

 「子どもたちは二カ国語で話しかけられても混乱しない」というのが常識となったのは、わずかにここ10年ほどの話であり、それ以前は、移民家庭は英語を学びカナダ社会に同化しようと必死なあまり継承言語を教えないのが普通だった。

現在はというと、市から派遣されるパブリックナースのシャーリーはことあるごとに「外で日本語を使うのはちょっと・・・という気持ちがあったとしても日本語で話しかけなさいね。あとあとになってエリックはそのことに感謝することになるから」と言うほど、公式に「家庭でのバイリンガル教育」を推進しているように思われる。このことは、シャーリーが言うように、「二言語で育つ子どもは、言語発達において混乱することはない」という最近続々発表される数々の研究結果に基づいている。

私が最近読んだ新聞記事によると、バイリンガル環境で育つ子どもたちには、一時的に二言語を混同して使う時期がある、しかし、その時期をいずれ通り越したところで、バイリンガリズムが習得される、とあった。発音、文法も構文のなりたちも違う2つ(あるいは3つ)の言語は、いずれ自然と差別化されていくらしい。さらに、こうした脳の差別化機能は、二言語を使う以上に、さらに複雑な情報を差別化したりカテゴリーわけしたりするのに非常に有効に働く、と記事ではくくられていた。

10年前とは違い、家庭でのバイリンガル教育が推進される今という時代に子育てができることに感謝。
 写真:7月3日、グリーンピースのピッキングにいそしむエリック

Thursday, July 2, 2009

二カ国語環境とことばの遅れ


 エリックが1歳半のとき、パブリック・ナースのシャーリーの訪問を受けた。トロントでは、デイケアに預けていない限り、専門家の知識や育児関連サービスに関する情報を受けられるようにと母親がパブリック・ナース(保健婦)と頻繁に連絡を取ることができる(市のサービスは無料)。シャーリーはエリックが1歳のころから数回にわたって訪問してくれているほか、何か必要なことはないかと定期的に電話をくれている。

 やってきてしばらくエリックを観察していたシャーリーは、私にことばに関する質問をいくつかしたのち、スピーチ・セラピスト(言語療法士)に連絡を取ってみてはどうかと勧めた。平均的な1歳半に比べるとことばに遅れがあるような気がするし、スピーチ・セラピストとの予約は半年待ちといった状況なので、2歳になった時点で必要がないと思えば予約を破棄するつもりで、念のため、予約を入れてみるのも悪くない、ということだった。

「二カ国語環境で育てていることが原因かしらね?」

と言う私に、シャーリーは「二カ国語環境がことばの遅れに影響することはないわ」とかなりきっぱりと言った。

 「二カ国語環境がことばの遅れに影響することはない」

 このクレイムには、さまざまな意見がある。専門家のあいだでは、確かに二カ国語環境と言葉の発達には関連がないという意見が多いようだが、プレイグラウンドの意見は多少違っている。(二カ国語で育てている)他の母親によると、子どもたちの言葉が少し遅いという意見が大半である。ただし、「ひとたび話し始めたらすぐに追いつく」という見方で、「心配することはないわよ」という。さらには、上の兄弟がいる、いないや、母親がおしゃべりかどうか、が関連するなど、二カ国語に絞って言うのは難しいという母親たちの話を何度も聞いている。

 「ことばが出ない」は「ことばを理解していない」とイコールではない。私と夫から受ける指示(まどのそばにあるりんごをとってきて/Go, get the apple by the window)に対してはどちらも完璧に理解してちゃんとボールを取ってくる様子を見ると、「理解度」に関しては問題ないことがわかる。ただし、「話す」に関しては「りんご」と「apple」の両方を使うわけではなく、なぜか発音しやすい方(この場合はapple)を選んでいる。なので、二カ国語でことばを蓄積している子どもたちにはスタート時点では確かに少し不利があるかもしれないが、いずれすべての発音がクリアにできるようになるとこの問題も消えるものと思われる。

 専門家は発達チャート(「この時期にはこれができる」)を見てその子どもの発達度をはかっているものだが、この発達チャートも半分ほど信用すればいい、と思う。たとえば、「300語の語彙がある」などという項目も、二カ国語環境で育つ子どもにとってはちょっぴり不利だという気もする。もし「りんご」と「Apple」の両方が言えても2語ではなく「1語」と計算されるのだ。

 私も夫も、結局、スピーチ・セラピストに電話しなかった。

 2歳になったエリックの様子を見ると、それで結局よかったと思っている。