Friday, August 28, 2009

2言語混合期まっさかり


昨日のこと。窓から入ってきた風に、お絵かきイーゼルの紙が動いた。そのとき、エリックが言った言葉は
かみ(紙)moving
最近のエリックは、2単語を使うのが好きで、一生懸命2単語をくっつけている。なので、
blueはぶらし ないない
赤いcar gone
などと、2言語が混在する文を作っていることが多い
「かあいい(かわいい)bunny バイバイ」
「マミーこっちcome、Meこっち」
というのもお気に入りで、自分のいるところに来てほしいときにこれを使う。
「Meまんま 食べ キッチン」
というのは、キッチンのテーブルで食べたいときに言う(普段はリビングのテーブルで食べる)。

昨日の会話はたとえばこんな風だった。
私「エリちゃん、雨がやんだら公園に行こうか」
エリック「プー、Me 行こう」(プールに行く)


「ダディー car 買い物」(ダディーは車で仕事に行く)*夫が仕事に行くのを買い物に行くと思っている
「おなか いたい デダ… ambulance 行く」(デダはおなかが痛くなって、救急車で(病院へ)行った)

明らかに2言語混合期。バイリンガル環境で育つ子どもには、避けては通れない時期である。エリックの場合はまだ文章らしい文章にはなっていないが、もう少し経って3,4単語の文章を作り始めたときにこうした2言語混合(たとえば、「I want to go to see 電車 ダディーと一緒」)が現れると、多くの両親は「2言語で育てているとひとつの言語ですらきちんとした文章が作れないようになるのでは?」とFreak outしてしまい、バイリンガル教育をあきらめることが多いらしい

この2言語混合期が起こる背景には、語彙がまだまだ少なくて、ひとつの言語で言い表せないものを補う形で出てくるという事実があり、いずれ、2言語の完全に異なる言語システムをおのずと理解するうちに、sort outできるようになるということだ。

知識は力なり。

あらかじめ、こうしてバイリンガル環境での言語習得の過程を知っていることは非常に力強いサポートとなる。エリックがどのように言語を混合して、どのようにsort outしていくのかを興味津々に見守っていこう。

Wednesday, August 26, 2009

Child –Directed Speech

エリックに話しかけるときの私は、自分の話しかけ方が普段、大人同士で会話しているのとは違うことに前から気付いていた。できるだけ簡単に説明したり、概念的な言葉を避けたり、同じ節を繰り返したり、しっかり目を見て話したり…、ということを意識的にやっているのだ。

たとえば、お遊びが高じて興奮したエリックが私の腕を叩こうとしたところ、「そうすると、マミーがいたいいたいってなるでしょ。エリちゃんもいたいいたいになるのはいやでしょ。マミーだっていたいいたいのはいやなの。だから、叩いたりしないの」と言った私。「暴力を振るってはいけません」とひと言で済むところを…。

考えてみれば、私が無意識のうちにエリックとの会話で伝えようとしていることのひとつは、できるだけ「原因―結果」の関係がわかるように説明することだと思う。こうすれば、こうなる、ということを伝えるのは、「法律で禁じられている」とか「いけません」よりもエリックにはわかりやすいと思う。さらに言えば、それを自分の身に置き換えて考えられる説明の仕方も大切だと思う。「マミーがいたいいたいになる」に加え、「エリックもいたいいたいになるのはいやでしょ」と言えば、納得の仕方が違ってくる。私はこの言い方で、エリックが動物や植物を大切に扱うように導いているが、実際、この方法は効を奏していて、ものを大切に扱うことは彼の長所のひとつになっている。

言語学で言われるChild-Directed Speechとは、子どもに誘導される話法のことであって、私たちは子どもに対するとき、無意識のうちに彼らのレベルにあわせた会話に組成しなおして語りかけているという自然な話法のことである。

子どもに誘導される話法の例とは…
  ゆっくりと話す
  簡単な語彙の使用(短くてすっきりした文章)
  文章の前で一呼吸置くのを避ける
  イントネーションの誇張と高い声音
  繰り返し 
(参考文献The Foundation of Dual Language Instruction by Edith Lessow-Hurley)

私の個人的経験からいくつか付け加えるなら…
  原因―結果を伝える(例:こうするとこうなる、だからこうしてはいけない)
  自分の身に置き換えさせて実感させる
  大切なメッセージは、必ず目を見て伝える(子どもの目線に降りて説明する)
ということも重要だと思う。言葉を教えるなかで、コミュニケーションの基本となる他者とのつながり方も教えておきたい。

Saturday, August 22, 2009

納得!の「LAD(言語習得装置)」と「ルール探し」

エリックのバブリングが始まったとき、「いくつかの言葉は中国語やフランス語の発音に聞こえるね」と夫と話していたのを覚えている。よく行く公園に中国語を話すおばあちゃんたちやフランス語を使っている家族がいたので、ひょっとして?とも思ったが、そんな時間は1日のうちわずか数分というところで、まさかそれをエリックが真似しているとは思えなかった。

赤ちゃんは周囲の言葉を聞きながら、それを模倣することで言語が使えるようになる、と私たちは考えがちだが、実際にエリックを観察していると、チョムスキーのLAD論が最も理に適っていことがよくわかる。

チョムスキーのLADとは…

人間が第一言語を習得できるのはなぜか、という問いに関する答えとして1950年代まで広く信じられていたのはImitation Theory(模倣説)だった。つまり、赤ちゃんは周囲で使われる言語を暗記し、それを徐々に自分のものとしていく、という説である。しかし、模倣説の問題点は、では、赤ちゃんが私たちの教えない言葉や発音を発するのはなぜか、という問いに答えられない点であり、それは究極的に言語に関するクリエイティビティを説明できないという問題となる。

これに対し、1950年代に言語学者のノーム・チョムスキーが主張した論は画期的だった。チョムスキーは、赤ちゃんの脳には言語発達に必要な能力が生まれながらに備わっていると主張し、この能力をLAD(Language Acquisition Device/言語習得装置)と名づけた

LADの特長は…
 *入力された情報に基づいて、文法を形成する
 *言語を成り立たせる決まりや原則を発見する
 *言語の構文(Syntax)、語義(Semantic)、語用論(Pragmatics)
 *仮説の実験、およびルール探し

言語は、数々のルールによって成り立つ体系(システム)である。
私が後になって英語を学んだとき、文法を理解しただけでは実際にネイティブ・スピーカーのように英語を操ることができないと知ったように、ここでいうルールとは文法に限らず、構文や文章の成り立ち(Syntax)、単語に付されたさまざまな意味(Semantic)、どういうときにどのように使うかといった実用的な言語使用(Pragmatics)、発音なども含む。これらのルールに基づいて言語を自在に操れることはネイティブ・スピーカーの条件で、たとえば「わたしが料理する」と「わたしは料理する」の文章の微細な違いを取れるのは、こうした言語のルールを本能的に理解しているからに他ならない。

言語を教えた経験のある人なら実感できるが、言語に関するルールの数は莫大である。それをひとつひとつ第二言語として学ぶ人に教えるのには限界がある。

第一言語を習得する過程では、こうした莫大な情報を脳にインプットしていくわけだが、赤ちゃんには生まれながらにして言語にかかわる情報をインプットできる装置が備わっている。第一言語(母国語)習得が文法書を必要としないのはそのためである。

また、チョムスキーは、言語習得は「仮説の実験」および「ルール探し」を繰り返すことで可能になると考えた。子どもたちは、言語情報をインプットしながら自分なりの仮説を打ちたて、その仮説が正しいかどうかを実際の場で使ってみることにより実証していくのである。

実際、私もこれを見たことがある。以前、プレイグラウンドでエリックと遊んでいるとき、3歳か4歳の子どもがやってきて私が「かわいい靴をはいているわね」と言うと、その靴のことを、弟のことを、あるいは家の庭のことなど、ありとあらゆることを説明しはじめた(このころの子どもは本当によくしゃべる!)。そのうち、”When my dog came to me, he took one shoe, I was angry… I get angry? What do I say? … I would say I get angry…”と自分の言語知識を試しているかのような話し方をしていたのを覚えている。私が“You got angry with the dog?”と聞くと、“Yes, I got angry with him”ときちんと訂正できたのも驚きだった。

最近のエリックは、動詞の活用を試していることがあるような気がする。昨日も、食事中に「Me食べ」「Me食べる」「食べた」というような活用形を意識的に使いながら、私の方を見ているので、ひょっとしてエリックは正しい活用を知ろうといろいろと試しているのかも知れない、と思い、テーブルにいるときには「食べる」と教え、テーブルから降ろした後には「食べた」と教えた。今のところ、「話したい」という気持ちを大切にしたいので文法的正しさを教えることに躍起になることはないが、これがチョムスキーのいうRule Finding(ルール探し)の初段階であれば、ここできちんとした言葉を教えておくことが大切だろう。

Thursday, August 20, 2009

電報スピーチ期まっさかり!

第一言語習得の過程は以下のような流れになっている。
   泣く …生後まもなく
   バブリング …5ヶ月から
   電報スピーチ …1~2歳

そして、この電報スピーチが2語から3語へ、そのうちにちゃんとした文章となっていくのである!


エリックは今明らかに「電報スピーチ」期にいるようで、
  Daddy Come on こっち
  Baby 今 起きた
  Mammy お料理 Done
  Me パスタ 食べ
  More tea とって 
  Me できない
  Pee pee Potty できた Me プーチ びっくり 

・・・というような文章を作っている。

知っている単語の羅列で、順番はランダム、助詞や前置詞がないため、まるで昔の電報(「たかし連絡乞う」みたいな)のように感じられる。

最後の「Pee pee potty できた Me プーチ びっくり」意味を取るためには、いささか想像力の飛躍が必要になってくる。

プーシキンとは夫の両親、エリックの祖父母にあたるデダ(「おじいちゃん」にあたるセルビア語)とグラニーが飼っている猫のこと。つまり、翻訳すると…
「おまるでおしっこできたから、プーシキンがびっくりしている」
となる。

現在、おまるを使っているエリックのトレーニングをスムースに進めようという意図から、私たちはDr.Kerpの言う、いわゆるGossipingをしていて、よい行動ができたら電話などで「これこれこういうことができたのよ」と、エリックがそばで聞いているのを確認して伝えるのである。そうすると、子どもは褒められているのをうれしがって、再び同じ行動を繰り返すのである。実際、これは非常に効果的で、エリックが公園とすんなり「バイバイ」できたことや、私の手伝いをしたりしたことなど、夫やぬいぐるみや木などにGossipingし、広範囲で利用している。とりわけ、エリックの大好きなプーシキンの名前は効果覿面で「プーシキンが感心していた」と言うのはキラー文句になっている(ちなみに、プーシキンはエリックがしっぽを引っ張ったり、逆撫でしたりするので、あまりエリックのことをよくは思ってない。この一方的な愛情、おかしくてかなり笑える…)。

話が本論からそれたが、エリックの「電報スピーチ」、英語と日本語が混合で使われている。ふと、私は「おしっこ」や「おまる」といった言葉を教えていないことに気付いた。ひとつのものに2つの名前を教えるのはときに面倒なもので、私もついつい「ピーピー」の方が言いやすいので、そっち1本で話している。しかし、思えば、教えないことにはエリックは覚えないわけで、今からでも遅くないので、こういった言葉も教えておこう。

写真は、ROM(ロイヤル・オンタリオ博物館)のBio Diversityの展示。世界のさまざまな動物の剥製が並ぶこの展示はEのお気に入り。

2歳までにできること(言語習得に関して)

トロント市の保険局(Toronto Public Health)の資料から、2歳までの成長のめやすを言語習得に関する項目のみピックアップして書き出してみよう。

 ・2ステップの指示に従うことができる
  (例「テディベアをもってきて、おばあちゃんに見せてあげて」)
 ・100~150語が使える
 ・代名詞が最低2つは使える(you, me, mineなど)
 ・2~4単語を組み合わせた短い文章を作っている(例 Daddy hat. Truck go down)
 ・話す言葉の50~60%が周囲に理解できる
 ・単語や音を簡単に発音できる 

ひとつでもNoのチェックマークがつけば、Preschool Speech and Language Serviceに電話をし、スピーチ・セラピスト(言語療法士)とのアポイントをとるように促される。

ふむ、チェックマークのひとつついたエリック。使えるPronounはMeのひとつだけ。このことを懸念すべきだろうか? スピーチ・セラピストに電話すべきだろうか?その理由についてあれこれ考えていたら、いくつか興味深い点に突き当たった。

まず、日本語で代名詞を教えていない。それは私が無意識に日本語の代名詞に対してある思いを持っているからだということに気付いた。エリックは男の子だから「ぼく」と教えるべきなのだろうが、私が今のところこの単語を教えていないのは(そして、英語モノリンガル環境のトロントでは、私が教えない限り、その言葉を学ぶ場所はほとんどない)、一人称にあたるIに、日本語で性別が付されていることが何となくイヤだからではないか。


次に、エリックはどうもモノに対してMine(自分のもの)という感覚が薄い。公園などで、自分が遊んでいるバケツやスコップを、すぐにまわりの子どもに持っていってあげようとするし、おもちゃの取り合いに参加したことは一度もない。今、大切にしていていつも一緒に眠っているラクーンのぬいぐるみも、ときどき私や夫に持ってきて一緒に寝るように促すことがある。そういう姿を観察しているとMineという感覚が薄いエリックに、その言葉が出てこないのもうなづけるという気がする。

なので、心配しているわけではないが、興味深い話が聞けるかもしれないので、一度、スピーチ・サービスに連絡してみましょうかね。

Monday, August 17, 2009

年齢に応じた語りかけと「ジャンプアップ」

ここ最近、私と夫がディナーのときに、あるいは車のなかで話をしていたりすると、エリックが何やら言って、それを放って夫との話に興じていると、突然、「マミイ!!」と大きな声を出すようになっている。その口調はまさに「話をしているんだから、こっちにも注意を向けて!」と言っているような…。

エリックが話したいのは分かる。最近は私たちの会話も何となく理解しているようで、今日も「Hothead(すぐに頭に血が上る短気な人)」という言葉を聞いて、私の頭に触れながら「あち(あつい)」と言ったりしている。だから、自分も会話に入れないのがちょっと悔しいのかもしれない。

エリックが生まれてから、私は他の母親たちが子どもによく話をするのを見ながら、感心してきたものだ。「ほら、マミーは今、靴のひもを結んでいますよ。右から始めて、今度は左。さあ、できた」とか、まるで実況中継をしているかのように、手も口も同時に動かしている母親たちが、私には驚異に感じられた。私は頭のなかでいろんなことを考えていて、その頭のなかの考えに忙しくて、エリックに話しかけるのにはかなり意識的な努力が必要だったし、今もそうである。

しかし、ここで告白するが、私にはエリックのレベルの会話がたまに退屈に感じられることがあって、それは、エリックの知っている単語が限られていること、概念的なことは説明できないことなどが理由で、私は無意識のうちに自分の頭のなかの世界(より多くの概念やらアイデアやらが詰まっている)に入っていくのだと思う。

シャーリー(パブリックナース)にも「何でもいいから話しかけていっぱいインプットをしてあげることが、言語上達の秘訣」と言われてきた。入ってこなくては、言葉は覚えられないわけだし、それをしてあげられるのは、四六時中一緒にいる私だということもよく分かっているのだが…。

言語習得の過程では、年齢に応じた語りかけが大切であるが、私たちは意識しなくても自然と1歳児には、1歳児に見合う、4歳児には4歳児に見合う語りかけを自然としているという研究結果を読んだことがある。たとえば、1歳児に「You should not hit the table」とは言わずかわりに「No hit!」と言うし、私もそうやって簡潔な日本語を話している自分に気付くことがあった。

付け加えると、英語圏の子ども向け絵本の古典となっている「ピーターラビット」が素晴らしいとされる理由のひとつは、単純な話で明快な文章で書かれているのもかかわらず、ところどころにレベル的に突如としてジャンプアップしたような単語(たとえばimploreなんて言葉)が入っていることである。こうしたちょっぴり聞きなれない単語を目にした子どもたちは、何だろうと思うし、話の文脈から予測することもできる。それが、言語学習の幅を広げてくれるのだという。確かに、知っているだけの単語を読んでいるだけでは新しい単語やその概念を知ることはできない。言語学習には、ピーターラビットが示すような「ジャンプアップ」が必要なわけで、子どもたちの言語習得能力は現在のレベルとちょっぴり上のレベルとのギャップをうめることで向上するというわけである

私もエリックの知っている言葉だけを選んで話していないで、意識的に新しい単語や概念を紹介しながら、エリックの世界を広げていく必要がある、ということね…。

気が早い私は、今からエリックと政治や歴史の問題を日本語で語れる日を心待ちにしている…。

Wednesday, August 12, 2009

Simultaneous Bilingualsとは?

「第一言語」とは、小さいころから自然に吸収していく言語であって、学校などで体系立てて習得するという過程を経ない言語を指す。「第一言語」は「母国語」とも言われる。

私の場合、第一言語(日本語)の基盤ができた上で、第一言語にたよって第二言語(英語)を学んだわけで、第一言語と第二言語の違いは明らかである。

一方、エリックはというと、英語も日本語も同時に学んでいる状況で、こうしたケースは「simultaneous bilinguals(同時バイリンガル)」と呼ばれる。とはいえ、simultaneous bilingualsにも強い言語と弱い言語があり、1日のうち、ほとんどの時間を私と過ごしているエリックにとっては、今のところ、日本語のほうが強いように見受けられる。

しかし、エリックがデイケア(託児所)や幼稚園に行き始めると、英語環境にどっぷり浸るようになると状況はがらりと変わる。(パブリック・ナースの)シャーリーはいつも「そのときが実際、試練のときよ。そこで日本語を続けるかどうかが問題。英語は心配しないでも後から自然に身につくのだから、とにかくしっかりと日本語を教えておくことよ」と口を酸っぱくして言う。

いやはや、心しておこう。

バイリンガルで育てるか、モノリンガルで育てるか?

近所のプレイグラウンドでよく顔をあわせるリチャード(4歳)は、母親クリスティーナと父親の母語が中国語にもかかわらず、英語だけの環境で育てられている。
大きくなって学びたいと思えば、そのときに中国語を始めればいい
というのが両親の思いである。( まわりの人はあれこれ言うけれど・・・http://mybilingualchild.blogspot.com/2009/07/blog-post_27.html

私と夫はというと、エリックをバイリンガルとして育てることは当然のことで、それに関して話し合いをしたことも、あれこれ議論した後に「では、バイリンガルで行こう!」と2人が合意した記憶すらない。

育児に関する私のよきアドバイザーである数人(パブリック・ナースのシャーリー、私が以前見てもらっていたドクター・マッソン(偶然、近所に住んでいる)、さらにプロのドゥーラでペルー出身の友人ドミ)もまた、エリックがバイリンガルで育てられるのは当然という認識で、「日本語をしっかり教えなさい」といつも言われ、日本語での語りかけについてネガティブなコメントをされた経験はまったくない。

バイリンガルで育てるか、モノリンガルで育てるか。

子どもが生まれたら、各家庭ではそれぞれの事情を考慮しながら、その選択を迫られることになる。暮らしている場所の言語環境、両親の言語や家族構成、両親の考えや希望など、バイリンガルかモノリンガルで育てるかを決める要因はさまざまである。

周囲を見わたしても、文化的アイデンティティを与えるために親の継承言語を教える両親、「自分の継承言語以外だと自分の思いをストレートに伝えにくい」と言う両親、「早くたくさんの友達を作って、この国の文化に溶け込んでほしいから…」いった理由など、それぞれの思いが透けて見えるようでなかなか興味深い。

私たちに関していえば、エリックには祖父母(夫および私の両親)と会話が成り立つようにあってほしいと強く思っているからである。恐らくこれが最も大きな理由であろう。

私の両親は、夫との結婚に最初は反対だった。今では、両親は夫を受け入れているという以上に、非常に温かく家族の一員として接してくれている。夫はことあるごとにそのことで両親には非常に感謝していると言っているし、私も同じ気持ちである。なので、私たちの子どもにはどうあっても彼らとコミュニケーションを図れる道具を与えてあげたい。エリックが大きくなってからの反応はさて置いて、私としては彼が小さいうちはできるだけのことをして、バイリンガルとして育てていこう。それは私の強い決意となり、「エリックの唯一の日本語教育係り」としての自分の役割を深く認識するようになった。デイケア(託児所)にフルタイムで預ければ、その間はすべて英語環境となるわけで、英語の方が自然と強くなっていくのは目に見えている。カレッジに戻る時期を先送りしたのも、働きたい気持ちを抑えられているのも、すべて「できる限り日本語環境を与えてあげるため」といっていい。

もちろん、その後、バイリンガル教育に関する資料を読むうちに、バイリンガルであることの利点を知るようになり、その知識は時にくじけそうになる「日本語教育係り」を大いにはげましてくれていることは確かである(バイリンガルであることの利点http://mybilingualchild.blogspot.com/2009/07/blog-post_5717.html)。

ひとつ明らかなのは、トロントという英語モノリンガル環境で暮らす私たちにとっては、日本語はマイノリティ言語であり、だからこそ日本語を教える私の役割が重要になってくる、という事実である。言葉の習得に関してあれこれ言っているのは絶対的に私の方で、英語話者の夫は、とくに意識的にバイリンガルで育てている、という感覚はない。もうちょっと英語の本を読んだり、アルファベットを教えたりしてほしいと私は思っているけれど、散歩に行ったり、ピロー・ファイト(枕を投げ合って喜んでいる!)をしたりして2人はいつもキャッキャ言っている。ま、疲れさせてくれるのはいいんだけれどね…。

Thursday, August 6, 2009

発音のパーフェクトでない私は英語で話しかけるべきではないのか?

「エリックの“Good Night”や“Thank you”の発音が日本人アクセントのように聞こえる」
と夫が言う。
私は私で、
「エリックの“かいだん”や“”のアクセントがガイジンみたい」
と言う。
 英語の発音のパーフェクトでない私、日本語の発音のパーフェクトでない夫は、それぞれ第二言語で話しかけるべきではないのだろうか。つまり、反対に言えば、子どもに第二言語を教えようと思えば、ネイティブ・スピーカーだけが子どもに話しかけるべきなのか(日本での英語教育に置き換えてみると、英語発音の不完全な親は子どもに英語教育ができないのか、というかなり興味深い問題となる)。
 
The Bilingual Edgeの著者King&Mackeyによると、その答えはNOである。

-ある人が第二言語で子どもに話しかけるとしよう(そのレベルは高いわけではなく、とてもネイティブのスピーカーには比べられないとして)。その人が話す内容はかなり低レベル、文法的には不完全な文章となる可能性もある。しかし、こうした不完全さが、子どもたちの言語習得に障害をもたらすとはいえない。換言すれば、子供たちは第一言語あるいは第二言語を習得する過程で、その言語を学び、最終的には使いこなすために必要なだけの能力をそなえているということだ。研究結果によれば、子どもたちが大人や上の子どもたちと言語を通じてやりとりをする経験がある限り、言語使用能力は確実に獲得されていく。では、文法的に完全な文章をしゃべるネイティブの言語話者が身近にいることが重要なのかというとそうでもなく、(略)子どもたちは、言語習得の能力を自然に身につけているため、たとえ大人が完璧に会話していなくても、たとえ積極的に言語を教えようとしていなくても、子どもたちの言語習得は達成されるのである。つまり、洗練された言語を言語を学び始めた小さい子どもたちに教える必要はまったくない。(略)むしろ、より必要なのは言語を使ってのやりとりである。(The Bilingual Edgeより)
 
言語学者であるキング&マッケイの文章はなかなかストレートに響きにくいが、彼らが言わんとするところは、子どもたちには言語習得能力がもともと備わっているわけで、その素晴らしい能力の前では、私の不完全なRやLの発音や間違った構文や文法などの弊害など取るに足りない、ということである。さらに、小さいころの言語習得の段階では、会話をしている人同士のやりとり(interaction)が何よりの決め手なのだということである。

つまり、こう言うことができるだろう。
たとえネイティブ・スピーカーであっても怖い・気味の悪い先生にある言語を習うよりは、発音や文法的に不完全であっても子どもが愛情を抱いている母親や父親からその言語を習う方が子どもたちにはよほど有益である。

日本では、英語ネイティブによるCDやDVDを聞かせたりして英語教育をしている人たちがいるという。それはそれで問題ないが、もし、それが母親や父親が子どもにDVDだけ与えて、他の部屋に行ったり、家事をしたりしているだけではまったく効果がない、ということになる。小さな子どもたちに英語(言語)を教えようと思えば、必ずそのCDやDVDを聞きながら、母親や父親が一緒に「これはこうこうだね」とか「あの音はかわいいね」とか何らかの語りかけをしながらする必要がある

結局のところ、言語はコミュニケーションの道具であり、相手と何かをシェア(共有)するための道具なのであって、その基本のところを押さえないでなされる言語習得はとても実用的とはいえないのだと思う。

エリックはときどき英語の絵本を私に、日本語の絵本を夫に持ってくる。たとえ私の発音が悪かろうが、夫の発音が悪かろうが、今まで通り、私たちは一生懸命にその絵本を読んであげよう。