「エリックの“Good Night”や“Thank you”の発音が日本人アクセントのように聞こえる」
と夫が言う。
私は私で、
「エリックの“かいだん”や“”のアクセントがガイジンみたい」
と言う。
英語の発音のパーフェクトでない私、日本語の発音のパーフェクトでない夫は、それぞれ第二言語で話しかけるべきではないのだろうか。つまり、反対に言えば、子どもに第二言語を教えようと思えば、ネイティブ・スピーカーだけが子どもに話しかけるべきなのか(日本での英語教育に置き換えてみると、英語発音の不完全な親は子どもに英語教育ができないのか、というかなり興味深い問題となる)。
The Bilingual Edgeの著者King&Mackeyによると、その答えはNOである。
-ある人が第二言語で子どもに話しかけるとしよう(そのレベルは高いわけではなく、とてもネイティブのスピーカーには比べられないとして)。その人が話す内容はかなり低レベル、文法的には不完全な文章となる可能性もある。しかし、こうした不完全さが、子どもたちの言語習得に障害をもたらすとはいえない。換言すれば、子供たちは第一言語あるいは第二言語を習得する過程で、その言語を学び、最終的には使いこなすために必要なだけの能力をそなえているということだ。研究結果によれば、子どもたちが大人や上の子どもたちと言語を通じてやりとりをする経験がある限り、言語使用能力は確実に獲得されていく。では、文法的に完全な文章をしゃべるネイティブの言語話者が身近にいることが重要なのかというとそうでもなく、(略)子どもたちは、言語習得の能力を自然に身につけているため、たとえ大人が完璧に会話していなくても、たとえ積極的に言語を教えようとしていなくても、子どもたちの言語習得は達成されるのである。つまり、洗練された言語を言語を学び始めた小さい子どもたちに教える必要はまったくない。(略)むしろ、より必要なのは言語を使ってのやりとりである。(The Bilingual Edgeより)
言語学者であるキング&マッケイの文章はなかなかストレートに響きにくいが、彼らが言わんとするところは、子どもたちには言語習得能力がもともと備わっているわけで、その素晴らしい能力の前では、私の不完全なRやLの発音や間違った構文や文法などの弊害など取るに足りない、ということである。さらに、小さいころの言語習得の段階では、会話をしている人同士のやりとり(interaction)が何よりの決め手なのだということである。
つまり、こう言うことができるだろう。
たとえネイティブ・スピーカーであっても怖い・気味の悪い先生にある言語を習うよりは、発音や文法的に不完全であっても子どもが愛情を抱いている母親や父親からその言語を習う方が子どもたちにはよほど有益である。
日本では、英語ネイティブによるCDやDVDを聞かせたりして英語教育をしている人たちがいるという。それはそれで問題ないが、もし、それが母親や父親が子どもにDVDだけ与えて、他の部屋に行ったり、家事をしたりしているだけではまったく効果がない、ということになる。小さな子どもたちに英語(言語)を教えようと思えば、必ずそのCDやDVDを聞きながら、母親や父親が一緒に「これはこうこうだね」とか「あの音はかわいいね」とか何らかの語りかけをしながらする必要がある。
結局のところ、言語はコミュニケーションの道具であり、相手と何かをシェア(共有)するための道具なのであって、その基本のところを押さえないでなされる言語習得はとても実用的とはいえないのだと思う。
エリックはときどき英語の絵本を私に、日本語の絵本を夫に持ってくる。たとえ私の発音が悪かろうが、夫の発音が悪かろうが、今まで通り、私たちは一生懸命にその絵本を読んであげよう。
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