Saturday, March 13, 2010

bits連載コラム 第3回  言語についての1考察

人には何ごとに関してもそれぞれ信条があるものだが、育児においても「ミルクより母乳」とか「離乳食は1歳から」など、およそさまざまな主張が交錯している。そういったアドバイスに、新米親なら最初はあたふたと対処するものだが、最終的に「これも受け流せばいいのね」と落ち着くのも、育児の尋常なる流れのひとつかもしれない。

「日本語をやめて英語にすればいいのよ」という言葉も、そうした主張のひとつに違いない。しかし、それでも湧き出てきた、あのモヤモヤは何なのだ…とあれから幾度となく考えている。

「2言語を知ってはじめて人は言語を知ったといえる」というゲーテの言葉は、2言語を知らなくては理解できない言葉である。英語を知ることで日本語の限定性に思い至るようになった私も(反対も然り)、日本語でなされる思考の広がりも理解した。私たちは言語の枠内でものごとを考え、言語によってそれを伝達する。それゆえ、言語は私たちの思考に深く関連し、私たちの存在自体をも規定するものと考えられている。

バイリンガルで育てるか、モノリンガルで育てるか―マイノリティ言語が混在する家庭では、ある時点でその決断を迫られる。さらに言えば、両親ともにトロントに住む日本語話者であれば、日本語で育てるか、英語で育てるか、という点で決断が要される。これらの決断には、文化アイデンティティの問題、実際問題としてのコミュニケーション問題、家族内の統合性、文化適応など、さまざまな要因が寄与する。そして、両親のこの決断は、どのような思考回路をもつか、どのような価値観を持つか、どのような職業を選ぶか、どんな交友関係をもつか…など、子どもの将来に多彩な影響を与えることとなる。

日系移民では2世でミックス、3世では日本語は完全に失われると言われる。日本語が失われると、日本文化とのつながりは絶たれるのだろうか。クリスティーナ家族の場合、広東語を教えられていないリチャードは中国文化とどのように関わることになるのだろうか。言語を通して私たちの在り方を考えると興味は尽きない。

我が家の場合、これらのことを思い巡らすことも、家庭内での議論もなく、事実上、バイリンガルで育てることなってしまって、後で「こんな重大な決断だったのね!」と気付いた…という何とも本末転倒なプロセスを経てしまった。ただし、遅ればせながら(子どもが1歳になるころ)言語について考えたり、周囲の人との会話から、私が手を染めている大仕事-エリックに日本語を教えること-は(子育てすべてに関して言えることだけれども)、彼の将来に限りない影響を与えるものであることをはっきり認識するようになった。

2 comments:

  1. バイリンガルでの子育て頑張って下さい♪
    お母さんは日本語、お父さんは英語でお話しする。
    これしかなですね。と言っても私達は日本人同士の夫婦なので、ちえみさんは人一倍日本語を意識しないといけませんね...。うちの娘は大学生と高校4年なので教育としての日本語は終わりましたが、家の中は日本語です。バイリンガル応援します!!

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  2. ワオ!はじめてのコメントをありがとうございます!
    そうなのです、エリックに日本語を教えるのは、私を置いて誰もいないことを身に染みて感じるのです、特に最近。今まで私、ああでもない、こうでもない、いや違う、そういえばね…とまどろっこしい日本語ばかり使っていたけれど、それもエリックが混乱しないように「はっきりと、簡潔に」日本語を使おうと心がけています。おふたりの娘さんの日本語教育がこれで終わったと言われる状況、とってもうらやましいです。私はまだ始まったばかりですもの…。でも、バイリンガル育児、私なりに精一杯やってみます!

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