先日、某紙某編集者から電話をいただいた。会話の内容は、本コラムの内容が「ぐるぐるまわっている」ようだけれど、「この先、どこに行くのか」が書き手の私には見えているのか、というものだった。このコメントには笑ってしまった。「日本語を話さない」問題にいまだに解決法が見えないことを指摘されたのだと思うが、正直なところ、私自身、この問題に解決法があるのか、「どこに行くのか」と聞かれれば、「私にだって分からな~い!」と答えざるを得ない。私にできることといえば、日々、この問題に手を変え品を変えしながら対応していく、ということでしかない。どこかに解決法が転がっていて、それを適用した途端、なんとまあ、エリックが日本語をペラペラっと話すようになる、というシナリオが存在しないことだけは確かだ。
前にも書いたが、私たちは漠然と「子育てには答えがある」と信じ込まされている。高い教育教材やトイレトレーニングのやり方に誰かがピッタリ符合したからといって、すべての子どもにそれが当てはまるわけではない。しかし、それを親や子どもの能力のせいにしてしまって、「他の子ども(親)はできるのに、なんでうちの子(親である私)にはできないの?」と、まったく的外れの批判が出て、ストレスを感じることになったりする。
こんなときこそ、河合隼雄のことば「大人が真剣に子どもに接している限り、非常に大切なことを子どもから教えられることがあるものだ」を思い出したいものだ。問題に対する答えが出ればそれに越したことはないが、その取り組みのなかで親と子どもが人間として成長する過程だって私は同じように大切だと思っている。
さて、またまたこんなことを書くと「ぐるぐるまわっている」と言われそうなので、この辺で「ぐるぐる」論はやめにして、最近の観察の結果を報告してみよう。
ひとつ、あれから私が気付いたことは、エリックのなかでは「有用性」のランキングがある、ということだ。ことばは結局のところ、コミュニケーションの道具なので、それを使って自分の意思(やりたいこと)が成せるかどうかという点で、有用性が大切になってくるのは私にも容易に理解できる。1日の大半の時間を過ごすデイケアでも英語、どこに行っても英語が話されているのだから英語になるのは当然。実際「にほんごは、にほんで話すんでしょ?」とか、ここはカナダだから英語で話せばいい的なことを言われ、面食らってしまった。明らかに有用性の高い言語を選んでいるらしい。
たとえば、日本人のグループ(大人)のなかに連れていって、しばらく私たちの日本語会話を聞いているうちに、エリックの会話にもいつもより日本語が増える。あるいは、日本語で行われる講演会に連れていくと、日本語で会話をしようとする。つまり、言語環境によって自動的に頭が切り替わっているようなのだ。ただ、私ひとり相手ではそうはならず、いろんな人から日本語を浴びるように聞くことが条件らしい。・・・やっぱり日本語のデイケアの効果は期待できそうである。
ランキングはきっとあるでしょうね。
ReplyDelete僕自身、20歳以降、トロントで関西弁で話す日本人の知り合いが少ないため、標準語に近いしゃべり方を(意識的ではないですが)するようになりました。大阪に帰るともちろんすぐに大阪弁に戻ります。
コラム(終了ですか?)残念です。
(勝手な想像ですが、)子育てばかりは、全く型にはまっていかない連続なんだと思います。
私も経験的に「子育ては型にはまっていかない連続」、そして「子育ては/型にはめると/ストレスばかり」(一応俳句)と感じています。実はこのコラムこそ、編集部に送って揉め事の原因になったもの。なんでこれが問題なのか私にはさっぱり分からないし、やっぱり私の子育てに対する態度を実によく表現していると思うので、ここに掲載してみました。
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