Friday, July 24, 2009

バイリンガル教育と親の(強固な)意思



日本人の母親が2歳、3歳になる子どもに英語で話しかけているのを、今まで何度か見てきた(父親は英語話者)。そのたびに、「まあまあ、なんてもったいない!」と思わずにはいられない私(もちろん、口に出しては言わないけれど・・・)。
バイリンガルになる可能性のそろった環境に生まれた子たちなのに・・・。
「最初は私も日本語で話していたけれど、そのうちにデイケアに行き、近所の友達ができると英語の方が断然強くなって、こちらが日本語で話しかけても英語で答えるようになって・・・」
・・・日本語を教えることをあきらめた、という話も何度か聞いたことがある。いや、このパターンは日本人に限らず、スペイン語、ポルトガル語を母国語とする友人たちからも聞いた。

だからこそ。
私はバイリンガル教育には子どもの意思や何やら以上に「親の強固な意志」が必要なのだと確信している。

子どもが小さいうちは(0~3歳)、言語習得を導いていく責任があるのは親である。6歳以降、第二言語を学ぶ場合は「彼らの意思を尊重する」ということもあるだろうが、自我が完成されていない0歳から3歳までは「意思」とは、「親の」意思なのだと思う。

とはいえ、私にも時々その意思がくじけそうになることもある。とくにプレイグラウンドで他の子どもたちや母親と話をしたり、話しかけられたりしたあと、日本語でエリックに話をしていると面倒だと思うこともある。エリックがちょっと年上の子に日本語で話して、その子が「What is he saying?」と奇妙な表情をしたときには、友達ができないのでは? 疎外感を感じるのでは?との懸念が過ぎることもある。しかし、ここで私が折れてしまっては、エリックの可能性を小さくすることになると、日々、下手な歌を歌ったり、「ぐりとぐら」を読んだりしながら、ああだこうだとがんばっている。

そもそも、私がそう信じるようになったのは、ベンジャミンの母親と話をしたことがきっかけだった。私もそれまでは多くの人たちのように「母親(あるいは父親)が日本語話者で、英語環境で育てば自然とバイリンガルになる」と漠然と思っていた。しかし、フレンチ・カナディアン(もともとフランス系移民が入植したケベック州はフランス語圏)であるベンジャミンの母親は「フランス語を教えるのは私の使命」と言い、彼女がフランス系の血を引くことを誇りに思うように、ベンにもそうあってほしいと強く願っていると言った。フランス語を話せるという事実は、自分の継承文化を受け継いでいるという事実となる。フレンチ・カナディアンであるという彼女の強いアイデンティティが、バイリンガル教育に対する情熱となっているようだった。

私も海外に住む日本人として自らの継承文化をエリックに教えたいと思う。そして、書くことや読むことに価値を置いている私としては、お正月に着物を着たり、剣道をしたり、納豆やおもちを食べたり・・・ということはほとんどどうでもいいが、コミュニケーションの手段である日本語を教えたい。ベンの母親と話して以降、徐々にそう思うようになったのだ。

エリックが生まれる前の私は、エリックが1歳になったらカレッジに復学すると宣言していた。しかし、今では少なくとも3歳までは私が面倒を見ようと思っている。その最大の理由は、「日本語を教えるのは私の使命」であると感じるようになったことにある。バイリンガル教育の研究分野では、早期(赤ちゃん時代)の語りかけ・読み聞かせが、発音の正確さや安定した言語習得過程を約束するとの報告であふれている。

友達と遊ぶことが楽しくなると、子どもはもちろん、英語に流れるだろう。しかし、エリックの意思が確立するまでは、私の意思を通し、日本語を教えておきたいと思う。

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